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『愛国戦隊大日本』論争をざっと見てみた(その4)

 ゼネラルプロダクツが発行していた会誌『パペッティア通信』VOL.1・3(1982年11月発行)の深川岳志「だまされちゃいけない! これがホントのTOKONⅧレポート」を読んでいて「ん?」となった箇所があった。同誌P.5より。

(前略)いよいよ期待のゼネプロアワーの時間がやってきた。狭い特設舞台を十重二十重に取り囲んだ人垣の盛大な拍手の中、岡田武田組の登場。店の宣伝でもやるのかと思えば、なんのなんの、世にもエグい即興漫才が始まった。別段打ち合わせというほどのものはなにもしなかったらしく、前の晩に、とりあえずこれとこれはエグいし下品だしTOKON側を刺戟するだけだからやらないでおこうと決めたことを全部喋ってしまった、と後で云っていた。その酷さたるや言語に絶するもので、あまりの酷さ故とてもここには記せないが、百人以上の観客を前にして正調ピカドン音頭を教授したことからもその酷さは想像できるであろう。客席は受けに受け、中ホールに入りきれない者達は外に置かれたビデオを食い入るようにして見凝めていたという。(後略)

  「ゼネプロアワー」というのは、「TOKON8」の会場である都市センターホールの中ホールで行われた企画らしいが(メインのイベントは大ホールで行われた)、それはそれとしてピカドン音頭」とは何ぞ。どうにも嫌なものを感じる…。そういえば、筒井康隆『玄笑地帯』(新潮社)にもこんな一節があった(余談だが『玄笑地帯』はkindleで購入したのだけど、kindleはページ数が表記されないので、どう引用したらいいのか困る)。

(前略)そういえば最近のSF大会、アホな演し物競争がエスカレートして、パロディと称し右翼的な共産主義撲滅の8ミリ映画を作って顰蹙を買ったと思ったら、次にピカドン音頭というのを踊りまくり、原爆被害を受けている女の人からSF誌上で叱られていた。「あなたがたには他人の痛みがわからないのですか。面白ければよいのですか。次は『水俣節』か『イタイイタイ音頭』でも作るつもりですか」(後略)

  …ああ、やっぱりそういうことなのか。「ピカドン音頭」は原爆をネタにしたものなのか。「右翼的な共産主義撲滅の8ミリ映画」というのは当然『愛国戦隊大日本』なのだろうが(筒井氏が会場で観たかは不明)、とりあえず「ピカドン音頭」の話を進める。

 「ピカドン音頭」については、『愛国戦隊大日本』論争においてゼネプロを厳しく批判してきた波津博明氏も批判している。『イスカーチェリ』VOL.25掲載の波津氏のコラムより引用する。同誌P.80より。

 たとえば、彼らが日本SF大会の会場で踊り狂った「ピカドン音頭」の歌詞を考えてみよう。

「青いお空にピカリとピカドン

のどがかわいた水をくれ

肉がただれてたれ落ちて

河に浮かぶは焼死体

広島でピカ 長崎でドン」

 これが「パロディ」か。「タブーへの挑戦」か。「一億総中流(=主流)国」日本の、平均的小市民の、最も薄汚く醜悪な差別感情(これこそ「国家」を支えているものだ)を異常なほどに正直に吐露しただけの、思想のタンつぼである。

 …絶句。…え? いや、本当に? 本当にこれをイベントで踊ったわけ? にわかには信じがたいのだけど。波津氏の書き方にもひっかかる部分はありはするが(本当に日本の「平均的小市民」はそんな「差別感情」を持っているのか?)。ちなみに、上に挙げた深川氏のレポートの中で「TOKON8」で司会をしていた波津氏を「一言も冗談を云わない男」と揶揄しているくだりがあって、やはりゼネプロと『イスカーチェリ』が仲良くするのは無理だったんじゃ、と思わざるを得なかった。それはさておき、波津氏の文章からもうひとつ 引用する。同誌P.81より。

(前略)イギリス反核運動のリーダー、ジョン・ブラナーや、イタリアの平和主義作家リーノ・アルダーニを招待しておいて、その目前で、「お富さん」の節回しで「ピカドン音頭」を踊りまくること(いや、ブラナーをもち出さなくとも、一般のSFファンにだってもちろん、被爆者やその家族がいることは、『SFイズム』の投書欄で明らかになったではないか)がなぜ正しく、それは好ましくないとするぼくはなぜ間違っているのか、まずそのことから説明してくれたまえ。

  「ピカドン音頭」を「お富さん」の節回しで踊れるかは考えたくもないのでスルーしてしまうが、ここで気になるのは「『SFイズム』の投書欄」である。上で引用した筒井氏の文章にあった「SF誌上」とは『SFイズム』なのではないか。ということで、調べてみると、確かに当時の『SFイズム』の読者投稿欄にそれらしき投稿を発見したので、以下紹介することにする。なお、実際の投稿には投稿者の名前(実名かペンネームかは不明)が記載されているのだが、プライヴァシーに関わる内容であることを考慮して、名前のイニシャルでのみ表記するので、その点はどうかご了承いただきたい。

 

 まず、SFイズム』VOL.5(1983年1月発行)の読者投稿欄「読者だって言いたい放題」にTさんという女性の投稿が掲載されている。同誌P.129より。

 SF大会TOKONⅧについてちょっと一言。あれはもしかしてゼネコン(原文ママ)だったのでせうか。東京で大阪芸人が大活躍するのを悪いとは言わないけど、でもあの「ピカドン音頭」はひどかったな。ハルマゲドンだとか星間戦争だとか、宇宙空母だ戦闘艦だと戦争についてのテーマ、あるいは背景はSFにつきものです。でもそれは、今の世の中、少なくとも今の日本が平和だから言えること。戦争になってみなさい、シャピオさんなんかまっ先につぶれちゃうぞ!

 「ピカドン音頭」をいっしょに歌う少年少女らは何も思っているのでせう。SFを愛するものだからこそ、科学と冒険とファンタジィとはるかな未来に想いを寄せるものだからこそ、この平和を大切に守りとおしてゆかなければならないんじゃないかな。でないと「ピカドン音頭」にうかれてるうちにイズムも焚書になるぞ!

  この投稿には担当編集者(同誌編集長の細川英一氏)から「そーだよなー。」というコメントがついている。

 ところが、続くVOL.6(1983年4月発行)の「読者だって言いたい放題」にH氏からTさんへの反論が掲載されている。H氏は、「SFというジャンルは自由なものである」ということを共に謳っている、筒井康隆小松左京の文章を長々と引用した後で、

(前略)(Tさんの意見に)「そーだよなー」などと同調している細川氏よ、おそらくヒューマニズムかなんかに眼を曇らされたのだろうが、そんなこっちゃ、毒で売ってるSFイズムの名が泣きますぞ(後略)。

と書いている。これには細川氏もカチンときたのか、

(前略)あなた「反論したい」っていってるけど、あなたの意見はどこにもないじゃないか。こういうハガキも最近ふえてる。自分の考えを書いておくれよ。そしたら受けて立つかいもあるんだけど。

と反論している。…まあ、掲載されている文章の49行のうち筒井・小松両氏の文章の引用が32行も占めていれば、細川氏の苦言は正しいとしか言いようがない。40年近く前の文章に突っ込むのもなんだが、H氏がヒューマニズムに眼を曇らされたくないばかりに、人間を辞めてなければいいと思うけれども。

 さて、H氏からの反論を受けて、今度はTさんの反論がVOL.7(1983年7月発行)の読者投稿欄「読者だってゆってもいいとも!」に掲載されていた。長くなるが、大事な文章なので可能な限り略さずに紹介したい。同誌P.121~122より。

(前略)世の中にはいろんなできごとがあって、人々はそれを評価し、時には皮肉ったり、パロディを作ったり、劣等感や優越感の中で生きてます。それはそれで必要なんだろうし、他人の不幸を笑えるというのは、自分はそれに関しては少なくとも不幸ではないわけだから、いい現象なのかもしれない。でもね、(中略)たとえば、筒井氏はあー言った、小松氏はこー言った、SFってのは、どんな悲劇をも描いて可能な自由なものなんだ、だから「ピカドン音頭」に反対するなんてナンセンスだ、とゆうこの論法には抵抗があるのね。(まず、「ピカドン音頭」がSFなのかどうか、私にはよくわからない。歌詞を最後まで聞く心のゆとりがなかったので…)

 SF大会で「ピカドン音頭」を聞いたときのショック……!

 私が感じたものはね、「怒り」なの。

 私は長崎で生まれ育ち、母は被爆者です。わかります? 小さい頃から同級生が白血病で亡くなったり、親類の人が原爆症で苦しんでいるのを見てきました。被爆から40年近くもたっているのに、この悲劇は「過去」ではないのですよ。少なくとも私にとってはそうです。SF大会の会場であれを聞いた時、私は、母や祖母や、多くの被爆者がさらしものにされている気がしました。悲しいとか、そんなもんじゃない。怒りです。

 過去や現在の悲劇を直視して真実を語ることには意義もあるし、大切な人類の義務だと思う。もちろんそれをとりあげてSFするのも、大切な視点のひとつだというのはわかります。だけど「ピカドン音頭」ってあれは何なの? ヒューマニズムが何だとかって、そんなきれいごとじゃないんだよ。私はね、あれをきいて腹が立ったの、それだけ。

 SFする人たちに、長崎や広島で苦しんだ(あるいは苦しんでる)人達ををあんなふうに余興で笑ってほしくなかった。「ピカドン音頭」を歌い踊ることで「過去の呪縛を解」くことができるのならば、「ミナマタ音頭」とか「イタイイタイ音頭」とか「ゼンソク音頭」とか、どんどんやればいいじゃない。日本中そうやって歌って踊って、笑ってしまえばいいじゃない。それが本当に筒井氏、小松氏言うところのSFらしさならば。でも、私はね、そうは思わないのよね。両先生の言ってる事って、もう少し違う気がする。

 私はここで戦争だ何だと大きいことを論じるつもりはないのです(今回は)。つまりさぁ、私はね、「ピカドン音頭」なんてのをSF大会という舞台でやってほしくないわけ。少なくとも一緒に歌ってる人達には、ほんのちょっとでいいから、それがどんなことなのかってのを知っててやってほしいの。

 私がこんなにやめてくれと連呼していても、今年はゼネ・プロさんのホームグランド、きっとまたやるんだろな、やだな。(後略)

 この投稿には担当編集者(細川氏?)から、

ピカドン音頭」がSFかどうかはさておくとしても、ダルマが訴えられたりする今の日本で、こういう問題の一番近くにいるのがSFであることは確かです。このようなことはこれからどんどんふえていくはずですし、誰かが考えなければならないことでしょう。他のところが避けて通っている以上、これはもううちがやるしかないようですなあ。

というコメントがついている。

…このTさんの投稿を読んで筆者が一番最初に思ったのは、

「筒井さんの書き方、あれってどうなの?」

ということだった。上に引用してある筒井氏の文章をもう一度読み返してほしいのだが、あれだと女性がヒステリックに反論しているように読めてしまうが(筒井氏の小説でしばしば見かけられるような)、実際のTさんの文章はそういうものではなく、「ピカドン音頭」に対する怒りと悲しみをそのままぶつけるのではなく、あくまで抑制を保ちながら知的にユーモアを交えて書いた、それだけに胸を打つ内容になっている(頭ごなしにやめろと言わずに、「きっとまたやるんだろな、やだな」とだけ書いているのも悲しい)。…いや、今回こうやって調べなかったら筆者も誤解したままだったろうから、正直怖い。それに、毒というかブラック・ユーモアは誤った受け取り方をされると危ない、という風に以前は思っていたけど、こうなってくると、毒/ブラック・ユーモアそのものが危ない代物なのではないか、という気がしてきた。少なくとも、そんなに有難がるようなものではない、と思うのは筆者が年を取ったせいなのかもしれないが。

 その次に思ったのは、「どうして波津氏は『ピカドン音頭』より『愛国戦隊大日本』の批判に躍起になったのか?」ということである。…いや、そりゃあ、「排外主義的な映画」も「そんな映画をSF大会で上映すること」も問題なのかもしれないけど、ならば「ピカドン音頭」をSF大会で踊ることの方が問題なのではないか? と思われて仕方がないし、批判に割いた分量があまりに違いすぎる。この点で気になるのは、『愛国戦隊大日本』を批判する「緊急共同アピール」の中で、

(前略)この映画が、日本ファンダムの内外に対する“顔”であり(中略)大会実行委の管理下にある、年次SF大会のメインホールで、何らの注釈もなしに上映された、という点です。

 

しかし、この種の映画は、日本SF大会のメインホールで上映すべきものではありません。

 と2度にわたって傍点付きで書かれていることで、ならば「ピカドン音頭」はメインホールじゃなかったからそこまで問題視されなかったのだろうか? と思ってしまう。

 ただ、「その2」で紹介した『イスカーチェリ』VOL.26の読者投稿欄でも「ピカドン音頭」について触れられているので紹介しておきたい。まず、沼野充義氏の投稿より。『イスカーチェリ』P.127より。

 それからもう一つ、気になったのは“ピカドン音頭”とかいうもののことですが(これだけも書いてあることだけからでは、あまりよくわかりませんが)、これはブラック・ユーモアとしてつくられているのでしょうか。それとも“大日本”と同じレベルの「無意味」な表現活動なのでしょうか? こういうものをつくっている人たちは、たとえば、アメリカのSFファンが「日本人は劣等な黄色人種だからもっと原爆を日本に落としてやらねばいかん」という趣旨のアニメ映画を(たとえ“大日本”と同じ軽薄さのレベルでも)つくったとして、それを顔色一つかえずに平気で見ていられるのでしょうか。そうだとしたらたいしたものですが、残念ながら、小生のとぼしい体験からでも、そうではなかろう、ということは言えそうです。異民族との接触の殆どないのどかな日常生活の中で育ってきた日本人は、頭の中では人種的偏見はないつもりでいても、いざ自分に対して差別的な言葉が使われたとなると、おかしなほど免疫がないというか、過敏な反応を示すものです。

 ブライアン・オールディスリトルボーイふたたび』の一件をなんとなく思い出したが、どうなんだろうなあ。「ピカドン音頭」にどんな意図があるのか、筆者にはさっぱりわからないので。

 もうひとつ、田波正(殊能将之氏の投稿より。同誌P.129より。

 ちなみにぼくの判断では、「大日本」は内輪でやれば許せるネタ、「ピカドン音頭」はどのような場所でやろうが、やったとたんにその人の神経を疑われてもしかたのないネタだと思っております。

 …「その2」で紹介した文章もそうだけど、個人的に田波氏の文章には納得できる部分が多い。「大日本」の論争を扱っていて、ゼネプロにも『イスカーチェリ』(というか波津氏)にも共感できなくて困っていたけど、こういう人がいてくれるのは有難いし、時代を超えて誰かと同調できるのはなかなか嬉しい体験でもある(それだけに殊能氏の早世は残念だ)。

 『愛国戦隊大日本』が時の流れに影響されていたように、「ピカドン音頭」もやはり時の流れに影響されているのかもしれない。「TOKON8」の4年後にチェルノブイリ原発の事故があり、そして言うまでもなく2011年に福島第一原発の事故があって、「核」に対する見方は「TOKON8」の時点よりも格段に厳しくなっている。筆者が「ピカドン音頭」に対して強い違和感を抱くのはそのせいかもしれない(あるいは、筆者が平和教育に熱心な土地で生まれ育ち、原爆の惨禍を幼少時から教えられていた、個人的な事情が原因なのかもしれない)。…いや、それにしたって、冒頭に挙げた深川氏のレポートにあるように、「客席は受けに受け」って本当に? と思ってしまうのだけど。盛ってくれてたらいいのに、とまで思ってしまう。

 

 …長くなってしまったが、以上で『愛国戦隊大日本』論争にまつわる説明を終えたい。筆者が調べたことは一通り書いたが、表題に「ざっと」とあるように、あくまで不完全な調査であることは自覚しているので、ここまでの文章に間違いや抜け落ちている点があればどうか指摘していただきたい、とお願いする次第である。

 

 それでは、ここから『愛国戦隊大日本』論争について、個人的に総括してみたい。本稿の中で何度も引用してきた、長山靖生『戦後SF事件史』(河出ブックス)は次のように『愛国戦隊大日本』論争についてまとめている。同書P.191より。

 思想の健全性を重視する近代主義と、すべてに本質的な意味を認めずに快楽原則で生きようとする相対主義の分岐点が、ここにはあった。モダンとポストモダンのすれ違いが、これほど明確に現われた事例も少ないだろう。

 実に見事なまとめ方で、一般的な見解としてはこれでいいと思うが、筆者にはいささかきれいすぎるように思えてしまう。というのも、ゼネプロ側がSF大会に対して実に生々しい感情を抱いていたことが見えてしまっているうえに、作品を批判された彼らはごく普通に怒っていて、相対主義的な態度には見えないからだ。『愛国戦隊大日本』という作品のありようがポストモダンだったとしても、作っている人間はそうではなく、モダンの尻尾をかなりひきずったポストモダン、くらいにしか思えない。まあ、これが難癖に過ぎないのはわかっているので、長山氏にはお詫びしてから、続いて筆者の見解を書いておく。

 まず、この問題で誰に一番の責任があるのかと言えば、それは言うまでもなく人騒がせな作品を作ったゼネプロである。自分のやったことでどのような影響が生じるのかを考えていないあさはかな行動だと言わざるを得ない。ただ、ここで問題になるのは、行動自体はあさはかであっても、『愛国戦隊大日本』という作品のクオリティが高いことと、『大日本』という悪ふざけに近い作品であってもスタッフは一生懸命に作っていることで、そういったことはプラスの意味で評価しなくてはならないので、全否定するわけにもいかないのが難しい(『大日本』の制作秘話というか苦労話は岡田斗司夫氏や武田康廣氏の著書を参照されたい)。もちろん、「ピカドン音頭」は論外だし、『愛国戦隊大日本』と「ピカドン音頭」が同じ「TOKON8」での出来事だった、というのは記憶されておくべき事柄だと、少なくとも筆者は個人的に考えている。

 それから、公平を期すために書いておくと、『愛国戦隊大日本』の「TOKON8」での上映は「不意打ち」に近いものだったかもしれないが(それで司会をしていた波津氏はショックを受けてしまった)、「その1」にも書いた通り、大会の運営側にはゼネプロ側から事前に口頭で説明があったことは『大日本』を批判する「緊急アピール」の中に書いてあるので、完全な「不意打ち」や「だまし打ち」にはあたらないし、また、フィルムを確認しなかった運営側の落ち度も「緊急アピール」は認めている(なお、『大日本』が完成したのは上映の前夜だったとのことなので、実際のところ確認は難しかったと思われる)。

 とはいえ、『イスカーチェリ』に問題がなかったか、というと、そうとも言えない。個人的に首を捻ってしまうのは、「SF大会の来場者や招待客に不愉快な思いをさせてはいけない」くらいの注意だったなら、そこまでこじれはしなかったんじゃないか? という点である。「極右礼賛」「排外主義」などという作品の内容にまで踏み込んだ批判は、その点に無自覚だったゼネプロには通じなかったし、彼らには高級すぎる批判だったのである。それに、政治的主張に力をだいぶ入れている向きもあるし、ゼネプロを「営利団体」「金儲け右翼」など揶揄したり、さらにはファンまで揶揄したり、余計なことをやりすぎている。まあ、『大日本』は別件としても、ゼネプロを以前から不愉快に思っていたのではないかな? と邪推したくなってしまう。

 次に『愛国戦隊大日本』論争の勝者は誰か? について、である。はっきり言ってしまえば、この論争自体はごくごく単純なものである。

 

イスカーチェリ「あんな排外主義的な映画を作るとはけしからん。しかも、外国からの招待客も来るSF大会で上映するとは何事か」

ゼネプロ「いや、あれはただのシャレですから。冗談ですって」

イスカーチェリ「シャレで済む問題ではない」

 

 以上、わずか4行に要約できてしまう。そんなシンプルな話を4回にわたって長々と書いてきた自分自身に呆れるが、ところで、この場合どちらを勝者とすべきか、と言われても、そんなの判定できるわけがない、というのが正直なところだ。水掛け論の審判など女神テミスにも難しいだろう。どっちも負けでいいんじゃない? と言ったら怒られそうだからやめる。

 ただ、ゼネプロの方が有利に見える、とは言えると思う。「その1」の冒頭で書いたように、ゼネプロからはその後クリエイターとして大成した人間が何人も出てきていて、その結果、後付けとして『愛国戦隊大日本』も彼らにとっての「アマチュア時代の武勇伝」として捉えられている向きは確かにある(「ピカドン音頭」も「武勇伝」になるのか?)。また、先に引用した長山氏の文章に出てくる相対主義」「ポストモダン的な風潮に『愛国戦隊大日本』はマッチしていた、とも言えると思う。平たく言えば「面白ければそれでいい」「笑えればなんでもいい」、という、現在に至るまで途切れることなく続いている流れである。その点で言えば、現在の視点で見れば『大日本』も微温的な作品に見えてしまうので、「そんなのにイチャモンをつけるなんて」と批判してきた側に呆れることもあるかもしれない。

 その反面、もしも仮に現在同じような事件があったとしたら、当時とは事態は全く違うものになるだろう、とも思う。つまり、あるイベントで『愛国戦隊大日本』のように政治的にデリケートな問題をネタにした作品を上映したらどうなるか、という話である。当時なら会場に来た人間だけが目にして終わりだっただろうが、今はネットが存在している。イベントを生配信することは珍しくないし、SNSでも情報はあっという間に広がる。そして、40年前と比べて「不謹慎」に対して世の中はだいぶ厳しくなっている。『大日本』の論争の時のゼネプロのように「冗談だった」と釈明しても許されるかどうかは微妙なところだろうし、一般のネットユーザーたちから批判されれば謝らざるを得ないのではないか、とこれまでに起きた数々の「炎上」の事例を見ても思う。「面白ければそれでいい」はもはや時代遅れの考え方なのかもしれない。

 さて、ここで「その1」の最後に取り上げたアオイホノオの件について考えてみたい。おさらいすると、マンガの中では『愛国戦隊大日本』を作るにあたって、最初から『イスカーチェリ』を仮想敵として考えていたかのように描写していて、岡田・武田両氏の証言とも違っていて、一体どうなってるんだ? と混乱した、という話である。

 結論から先に言えば、『アオイホノオ』の描写は「盛っている」、というのが個人的な考えである。盛ったのが証言者なのか、島本氏なのかは知らないが、事実とは異なっている、と思う。単純に言えば、『愛国戦隊大日本』はアマチュアの若者たちが多大な労力を払って完成した作品で、気に食わないサークルをからかうためだけにわざわざそこまで苦労しないだろう、というのが第一の理由である。第二の理由は、岡田・武田両氏の反応で、彼らの怒り方もしくは戸惑い方は「思いも寄らないことを言われた」時の人間の反応のように筆者には見えるのだ。『イスカーチェリ』を仮想敵にしていたのであれば、彼らから批判が来るのは当然予期していたはずで、それならもう少し気の利いた返しを用意していてもいいのに、岡田氏も武田氏も実に素直に怒りを表している。それで「盛っている」と判断したのだが、とはいえ、『アオイホノオ』は現在も連載中で、『愛国戦隊大日本』についてもまた何か描かれるかもしれないので、その点は注視していきたい。

 

 また、かつて「唐沢俊一検証blog」をやっていた人間から見ると、かつて「SFの先輩」に怒っていた岡田氏が後になって「オタクはすでに死んでいる」などとオタクの「後輩」に対して批判的な態度をとったのも解せないところである。権力による抑圧を批判していた人間がいざ権力の座に就くとより抑圧的な振舞いをするようになる事例も珍しくはないが、そこまで大仰な話でもなくとも、自分がされて嫌だったことを他人にしていませんか? と疑問を持たざるを得ない。細かい点で言えば、そんな岡田氏と唐沢俊一氏が「オタクアミーゴス」で一緒だったのも解せない。『ぴあ』の「ガンダム論争」での唐沢氏のスタンスは、80年代初頭のファンを批判している点においては『イスカーチェリ』に近いのではないか(もっとも、別の点で唐沢氏と『イスカーチェリ』は相容れないだろう、とは思う)。

 

 最後にはっきり書いてしまうと、『愛国戦隊大日本』論争は筆者にとってはわりと他人事である。40年近く前の出来事ということもあるし、生まれてこのかた一人でオタク趣味を楽しんできた人間としては、「集団で趣味を楽しむのってやっぱり面倒臭そう」という感想しか持ち得ない。まあ、全く自覚はないものの、「みんなで楽しそうにしやがって」という羨望や嫉妬も心のどこかにある可能性は否定しないけれど、そうは言っても我が事として受け止められないことに変わりはない。『ぴあ』の「ガンダム論争」はかつてハガキ職人をやっていたこともあったので、身につまされる思いも少なからずあったが、今回はそのような感情はない。若気の至りについてはこの件に限らず常々自覚しているので取り立てて言うほどのことはないし、「政治的あるいは社会的なネタを取り上げる時は気をつけよう」というのは、40年近く前の出来事を振り返るまでもなく、毎日のようにネットで燃え盛っている火の手を見ればわかることである。したがって、本稿の終わりに何かしら教訓めいた結論を書くつもりはないし、書く資格も筆者にはない。ここまで読んでくださった方が思い思いに考えてくれればそれで十分である。

 ただ、それでも、80年代初頭のSFファンたちの言動を見ると、「この人たちと今のオタクは全く違うわけでもないんじゃないの?」という思いが湧いてくるし、当ブログはこれ以降も「オタク史」を振り返っていくことを目的の一つとしていくはずなので、本稿をブログの幕開けとしたことは、それなりによかった、という気が今はしている。

                               (この項おわり)

※追記

岡田斗司夫『世紀の大怪獣!! オカダ』(イースト・プレス)P.177に再録されたマンガ「DAICONⅢあふたあ・れぽおと」に「DAICONⅢ」の打ち上げで「ピカドン音頭」を披露する岡田、武田、宮武一貴の三氏が描かれている。

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  筆者からは特に言うことはない。というより言いたくない。

 

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