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『愛国戦隊大日本』論争をざっと見てみた(その3)

  岡田斗司夫『遺言』筑摩書房)の中で、岡田氏が「SFファンの先輩」に怒りをぶつけている部分がある。岡田氏によると、1970代後半当時のSF大会「東京のSFファンが、すごくでかい顔をしてのさばっている場所」で(『遺言』P.17)、大阪のベテランSFファンは先輩風を吹かせる癖に自分たちのことを全然助けてくれようとしない、という具合に、岡田氏にしては珍しく私怨をストレートに表現しているあたり、よほど悔しかったんだろうな、というのが伝わってくる。同書P.19より。

  その二年後の八一年、ようやく大阪の順番がまわってきたわけです。DAICONⅢは、僕らにしてみれば、一大復讐戦だったんですよ。

 大阪で先輩風ふかしている三十代の憎い大人たち! とか、SF作家の近くにいるというだけで業界風を吹かす、東京の勘違い野郎ども! とかに対するね。

「三十過ぎたら、人間、あんなに頭が固くなるんだ。オレは三十歳になる前に死んでやる!」とか公言していたんですから、あのころの僕って、なんと若かったことか。

 P.22より。

 今の状態じゃ、SF界はダメだ。

 SFを狭くとらえて、アニメも特撮も認めないと言ってたらダメになる。

 三十歳過ぎた頭の固い連中を土下座させられる。

 若いSFファン全員を味方につけられる。

 そんなアニメを作ろうじゃないか。

 こんな具合に思い詰めていた岡田青年が、「オタクはすでに死んでいる」と言い出した後の自分自身を見たらどう思うのだろう、という気もするが、「SFファンの先輩」や「東京のSFファン」に違和感を持っていたのは岡田氏だけではなく、いわゆる「大阪芸人」として岡田氏とコンビのように見られていた武田康廣氏もそうだったようである。『のーてんき通信』ワニマガジン社)P.43より。

 当時出会った東京のSFファンっていうのは、なにかというとすぐに、東京の地の利で作家とか出版社の人間と親しいことを鼻にかけているような人物が目立った。そう見えた。一番頭に来たのは、ぼくらが何か言うと、「あぁ、それね」などと言うことだ。「何でも知っている、ぼくは知らないことはありません」的な態度に出るのがたまらなく嫌だった。おまけにすぐ人を見下したような態度をとり、自分が優位に立たないと気がすまないような発言ばかりが目立つ人物もまた多かった。まぁ当時、ぼくらもそうだけど、SFファン自体が幼稚だったのではないだろうか。SFファンの論争自体がすぐ子供の喧嘩みたいに興奮したものになっていったのもそういう理由だからかもしれない。

 読んでいるだけで「東京のSFファン」が嫌いになりそうになるな…。岡田氏の文章を読むと「SFファンの先輩」は邪魔ばかりしていたように思えてしまうが、武田氏の方は「大きなイベントの前に小さなイベントをやって経験を積むべきだ」とアドヴァイスしてくれていた、と書いたり、『SFマガジン』に「SF大会」の告知を勝手に打った件は自分たちの落ち度だ、と認めていたり、比較的バランスが取れた見方になっているように思う(岡田氏はSF大会について「引き返しがつかないように会場まで予約した」と『遺言』で書いているが、この書き方だと既成事実化して強引に開催しようとしていたようにも読める)。

 また、武田氏が他の大学のSF研究会に話に行くとオルグ」「プロパガンダなどといった言葉が飛び出して抵抗された、とのことで、武田氏は「この時代はまだほんの少しだけ学生運動の影響が残っていたらしい」(P.27)と分析していて、興味深い証言になっている。

 2人の証言を読むと、こういった怨念が積もりに積もって『愛国戦隊大日本』を作った原動力になっていった、とも思えてくる。しかし、そういった怨念が創作に発揮されているだけならまだしも、現実に行動をとらせる原動力になっていたとすれば、話は穏やかなだけでは済まされなくなっていく。

 

 「星雲賞という賞がある。規約によると「優秀SF作品及びSF活動」を対象とした賞で、日本のSF界では最も権威のある賞のはずである(筆者はSFに詳しくないので、これに限らず間違いがあったら指摘してほしい)。星雲賞の選考方法は、これもまた規約によると、「一般及び日本SFファングループ連合会議加入グループによる候補作選定」を行ったうえで、SF大会の参加者がノミネートされた作品に投票して、最多得票を得た作品が賞に輝く、ということになっているようだ。これを踏まえたうえで話を進めたい。

年次日本SF大会におけるSF賞選定に関する規定

 

 SFイズム』VOL.9(1984年1月発行)に掲載された「GENERAL PROTOCULTURE」第2回に次のような一文がある。同誌P.73より。

さて第14回星雲賞に向けてDAICONスタッフはあの「大日本」をぶつけてみました。ま、つまり友達でSF大会参加権をもつ奴とかに声をかけたりそれとなく言ったりした訳です。そしたら来るわ来るわ、ブレードランナーの40数票を軽く引きはなして120票以上の得票となったのです(ま、しかし四千人からの大会で総投票数が200票そこそこというのも情けない話ですが……)。が、結果は無効ということになりました。

 何故無効になったかというと、「GENERAL PROTOCULTURE」によると、投票後に連合会議の上層部でセレクションが行われ、結局当時の議長だった 門倉純一氏の判断によって無効になった、ということらしい(そして結局『ブレードランナー』が受賞している)。この回の「GENERAL PROTOCULTURE」はそれを受けて星雲賞のありかたに疑問を呈していく内容になっているのだが、長山靖生『戦後SF事件史』(河出ブックス)によると、次のような事情もあったらしい。同書P.194より。

 とはいえ、連合会議がゼネプロ作品に星雲賞を出さなかった理由は、彼らの作品を排除するためではなく、むしろゼネプロをSFファン仲間と思っていたからこその配慮だった。SF大会に集ったファンの投票で決める賞で、SF大会がらみの身内の作品を受賞させるのは、あまりにお手盛りすぎる。ことに映像メディア部門では、何が受賞作に選ばれるかは、SF外の映画関係者なども注目しているため、良識ある対応が求められたというのが、日本SFファングループ連合会議側の事情だった。

 もっともな話のようにも思えるが、「君たちのためなんだ」と説明されてもゼネプロ側は納得できなかったろう。武田氏の『のーてんき通信』P.87より。

なんせダイコン3のオープニングアニメが星雲賞の映像部門でトップの投票数を得たにもかかわらず、一般公開していないというこじつけで特別賞にされた。

 連合会議の示した理由は「こじつけ」にすぎない、というわけであるし、前年に「DAICON3」のオープニングアニメの受賞も無効になっていた、ということのようだ。

  ところで、上に引用した「GENERAL PROTOCULTURE」で気になるのは、『愛国戦隊大日本』に星雲賞を取らせるために組織票の工作を行った、と堂々と公言していることである。ちなみに、武田氏は後に因縁のある日本SFファングループ連合会議の議長に選出された際にも、同様の工作を行っている。『のーてんき通信』P.87~88より。

(前略)白状するべき点は、そのときの賛成票の多くは、ぼくらが作って、そのときだけ加入した架空のSFファングループだったのだ。柿崎(引用者註 一吉)氏も知っての暴挙だった。

 だから、この手のラフプレイというか反則行為も辞さない部分が当時のゼネプロにはあったのだろうし、逆に言えば議長選挙でこういった手が通るのなら、星雲賞の選考もどの程度厳密だったのか疑問になってくる。 

 ここで問題になるのは、「工作を行った」と公言することによって、たとえゼネプロにはそういった意図はなかったとしても(本当になかったかは疑問だが)、相手方を挑発する意味合いが生じてくる、ということだ。現に『愛国戦隊大日本』をめぐる論争の相手方である波津博明氏は、『イスカーチェリ』VOL.26所収のコラムでゼネプロ側の行為に憤っている。同誌P.116より。

(前略)TOKON以来GP(引用者註 ゼネラルプロダクツの略称)の動きもあまり耳に入ってこないし、もし“大日本”がこれで沙汰やみになるなら、本格的な論争は避けてもいいと考えていたころである。そこへ、あるファンから「ダイコンⅢオープニングアニメで受賞できなかったGPが、今度は“大日本”を星雲賞にぶつけようと運動している」という情報が入った。

(中略)

そこで僕は真相を確かめようと、GPに直接電話した。出たのは岡田氏。“大日本”で星雲賞を狙っているという話があるが、どうか、ときいたところ、「とんでもない。第一あんな出来では話にならない。みんなでリメイクしようといってるくらいですよ。星雲賞なんてとてもとても。そんな話があったら、こちらから辞退したいくらいのもんです」という答。なんと僕はこれを信用してしまったのだ。(後略)

 にもかかわらずゼネプロは運動していた、というわけである(谷山浩子オールナイトニッポンで「大日本」の主題歌がリクエストの1位を取ったりしたらしい)。論争だけを見ていると波津氏が怒りすぎなのでは、という気もしていたのだが、自分が司会していた会場で不意打ちに近い形で『大日本』が上映されるわ、電話で嘘をつかれるわ、そりゃ怒るのも無理はない、と同情せざるを得ない。なお、波津氏はこの文章の後で「全くのアマチュアのおふざけフィルム」が『ブレードランナー』に勝利を収めた「星雲賞」の投票方式に疑問を投げかけているが、それは「確かにおかしい」としか言いようがない。

 

 これとは別に指摘しておきたいのは、当時のゼネプロが「金儲けに走っている」と見られていたことである。たとえば、『のーてんき通信』P.63より。

 新しいビジネスを始めるとやっかむ連中も出てくる。ある日海洋堂をたずねて行ったとき、たまたま来ていた模型問屋の人に紹介してもらった。するとその人は「ああ、あの金に汚い商売をしている」と言った。(後略)

 このケースは模型業界の話であり、武田氏の言うようにやっかみなのかもしれないが、しかし、SFファンの世界でも似たようなことはあったようで、「その1」で紹介した堀秀治氏(波津博明氏の変名) のTOKONレポートでも、「大阪の営利団体ゼネラルプロダクツ」「まあ、せいぜい商売に熱を入れるのがよろしいんじゃありませんか」と揶揄されていて、『イスカーチェリ』VOL.26で岡本篤尚氏は、

 僕は当初から、

(中略)

ゼネプロを真正右翼であるかのように見る波津氏の見解は誤りであり、彼らは、単に右翼タカ派的な昨今の時流に迎合して金儲けをたくらんだ迎合右翼/金儲け右翼と見るべきだと主張してきた。(後略)

 と主張している(同誌P.122)。また、本稿でたびたび引用している『戦後SF事件史』には、『愛国戦隊大日本』をめぐる論争について次のように説明されている。同書P.189~190より。

 この後、論争が起こるのだが、実はすぐに起きたわけではなかった。大会後に出た「イスカーチェリ」27号では、小さなコラムでその不見識をちくりと指摘するに止まっている。それが本格的な批判に発展したのは、大阪芸人がSFグッズの店を出し、SFを商売にしはじめたことが大きかった。DAICON3オープニング・フィルムや「愛國戦隊大日本」のビデオを販売し、またDAICON4で星雲賞獲得を目指して、ファンダムに働きかけるなどのロビー活動を展開。さらに彼らはDAICON4で儲けようとしているとの噂も聞こえてきた。

 それまでのSF大会は、ずっとボランティアで営まれてきた。スタッフがボランティアであるのはもちろん、幹部スタッフは赤字の穴埋めをするのが慣例だった。だからこそ、作家たちも無報酬で講演やシンポジウムを行ない、カンパさえしてきたのだ。大阪芸人がSFを商売にするのは勝手だが、SF大会まで食い物にするのは許せないと考えるSFファンもいた。「愛國戦隊大日本」は彼らの身勝手さの象徴のようにも思えた。

 この長山氏の説明は重要である。ただし、重要なのはおそらく氏の意図していない点なのではあるが。何より奇妙なのは「SFグッズの店」、つまりゼネラルプロダクツが開店したのは1982年2月14日で(『のーてんき通信』P.63に明記されている)、『愛国戦隊大日本』が上映された「TOKON8」が開催される半年前、ということである。前年(81年)に開催された「DAICON3」で試しにガレージキットを売ってみたところ、瞬く間に完売したのを見た岡田氏がSF専門店を作る構想を閃いたそうで、若い時から商売の勘が優れていたのだな、と感心させられる。それはともかく、長山氏の説明に従えば、『大日本』が上映された後でゼネラルプロダクツが開店しなければならないはずなのに、実際の流れはそうではない(細かいことを言えば『戦後SF事件史』で挙げられている『イスカーチェリ』の号数も誤っている)。実際の流れに即して考えるなら、「ゼネプロが商売に乗り出したから論争が始まった」のではなく、「もともとSFグッズを商売にして一部のファンから悪感情を持たれていたゼネプロが星雲賞獲得のための運動に乗り出したから論争が始まった」ということではないか。これなら上に引用した波津氏の文章とも符合する。

 …さて、ここまで書いてきて、筆者の頭にひとつの疑問が浮かんできた。「商売、あるいは金儲けは悪いことなのだろうか?」という疑問である。もちろん、ゼネプロが阿漕な商売をしていたらそれはもちろん批判されるべきことだが、『イスカーチェリ』や長山氏の文章を読む限り、SFを商売にすること、それ自体が悪いように読めてしまうのだ。

 ゼネラルプロダクツは日本で成功を収めたはじめてのSFショップだったのだが、開店当初はもちろん「3ヶ月持てば上等だ」などと陰口を叩かれていた。

 と武田氏が書いていたにも関わらず(『のーてんき通信』P.106より)成功を収めたのだからそれは評価されるべきことだし、現在のオタク系グッズの充実ぶりを見ても、ゼネプロには先見の明があった、とするのが妥当ではないか。少なくとも、チャンコ増田をせせら笑った「マネーの虎」たちよりは先見の明はある(いつの話だ)。もっとも、アマチュアリズムを持ち上げ、商売/金儲けを批判する心性は今でもあるのだろう、という気はするが(最近ネットで話題になっていた「同人誌の値段が高すぎる」問題など)、ファンが増えてSFというジャンルの裾野が広がっていた当時の状況で、長山氏が書いているような「ボランティア」「無報酬」だけでいつまでもやれたはずはなく、商売/金儲けが関わってくるのは時間の問題だったはずで(ゼネプロがやらなくてもいずれ誰かがやっていただろう)、また商売/金儲けがからむことによってジャンルの裾野はさらに広がっていくわけで、それは一般的には「発展」としてとらえられることだろう(もちろん「堕落」ととらえる人もいる)。

 そして、実際1980年代初頭にSFファンは増えていて、だからこそ岡田氏はSFファンを相手にした商売が成り立つ、と見抜いて専門店を開業したわけで、また、『愛国戦隊大日本』論争においてゼネプロの相手方となった人々もファンの増加を実感していたのである。

 たとえば、翻訳家の深見弾氏である。深見氏は「TOKON8」の会場で共産圏からの来客に対応していたそうで、そういう状況で『大日本』が上映されればたまったものではない、というのはよくわかる。深見氏は『SFマガジン』1982年11月号のコラムでも『大日本』を批判しているが、ここでは『イスカーチェリ』VOL.24の巻頭コラムから引用しておく。同誌P.4より。

 SF大会で「愛国戦隊大日本」を演じた連中は、きっとどんな時代でも楽しく生きていけるだろうから、それはそれでいいのだが、あれに拍手喝采を送った若者たちはいったい何を考えているのだろう。

  もうひとり、波津博明氏の文章も見てみよう。『イスカーチェリ』VOL.25、P.79より。

(前略)猫もしゃくしもSFを読み、いやそれどころか、キャラクターフェティシズムの、オモチャメーカー提供合体ロボットマンガを何本かご覧になって「SFファン」になられる少年少女が(中には二十代にもなった退行性青年も多いときくが)バッコしているご時世に、少なくとも「自称SFファン」は異端でも少数派でもない。それどころか、今や多数派である。「SF大会」にしたって、四ケタの人間が集まってくれば、確実に三分の二は、キャラクターフェティシストか、それに毛が生えた程度の「SFファン」だ。

 …『愛国戦隊大日本』論争の2年前に『ぴあ』の投稿欄で繰り広げられたある論争を思い出して、思わず血が騒いでしまう皮肉たっぷりの文章だが(その論争については「唐沢俊一検証blog」の「1981年の祭り」全7回を参照されたい)、深見氏も波津氏も、『大日本』の製作者ではなく「SFファン」を対象にしている点では一致している。自分たちとは違う新たなファンの出現にとまどい、反感を抱いているのは2人とも同じだろう。

 

「あ、そうか。これは論争と言うよりは抗争なんだ」

 

 遅ればせながら、ここに至ってようやく筆者は『愛国戦隊大日本』をめぐる論争について「つかめた」感じを持てた。つまり、保守的なマニアとアニメや特撮も「あり」と考える新興勢力とのSF界における争い、である。「排外主義」とか「SF大会でそういう映画を上映するなんて」とか、論争自体を見ていてもいまひとつピンとこなかったのが(なにしろ40年近く前の話だ)、背景までさかのぼってようやく「つかめた」、そういう気持ちになっている。もちろん、人によって解釈は分かれるだろうが、少なくともそう考えた方が筆者には一番わかりがいい。

「GENERAL PROTOCULTURE」第2回で岡田・武田コンビは次のような文章を書いている。『SFイズム』VOL.9、P.75~76より。

 その昔、SF界には作家もファンも分けへだてない蜜月時代があったと伝えられています。その中で共通の特殊言語(あるいはキャラクター)が育てられ、その閉鎖性により、より結びつきは強まりました。しかし時は流れて「私たち」が彼らの中に入って行ったのです。「私たち」は彼らの言語、タブー、秘密の習慣を知りませんでした。壁が生れたのです。その壁の発生により「彼ら」の結びつきはより強まり、その言語を知り、その習性を身につけている事が「古参兵」の証しとなったのです。当然、その言語を新参の「私たち」に教えようという試みがなかったわけではありません。しかし拡大しつつあるメディア(たとえばアニメファンにはどうすればSF界の用語を伝えられるでしょうか?)の勢いにかなう訳がなく、今の二分化された状況があるのです。 

 SFファンが世代によって分断されている状況を嘆いていて、長山氏は『戦後SF事件史』の中でこの文章を引いた後で「一般論として傾聴に値すると思う」と書いている(P.194)。ただ、筆者は「いやいや、そうは言っても、ゼネプロとイスカーチェリが仲良くできるとはとても思えない」という身も蓋もない感想しか思い浮かばないので、我ながらいかがなものかと思う。両者が同じSFファンと言っても、拠って立つ文化とアティテュードがあまりに異なっているのは明らかで、言い方を変えればSFファンであることしか共通点がない、とまで言えるのであって、むしろそんな両者の距離が近すぎたのが『大日本』論争の一因ではないか、と思う。岡田・武田コンビが嘆いていたのとは逆に、二分化あるいは棲み分けの不徹底が争いを生んだのではないか、とも思える。このような対立は、ジャンルの過渡期にはよくあることなのかもしれないが、細分化かつ多様化が進んだ現在のオタク文化から見てみると、この30年余りで状況が劇的に変化したのだと思い知らされる。

  なお、「DAICON3」のオープニングアニメと『愛国戦隊大日本』がそれぞれ「星雲賞」の「大会メディア賞」を受賞した、という記述も一部で見られるが、公式サイトの「星雲賞リスト」(http://www.sf-fan.gr.jp/awards/list.html)に2つの作品は含まれていないので、いずれも受賞していない、と考えるのが妥当だろう。

 次回、「その4」は『大日本』論争に付随したある問題を取り上げた後で、論争自体の総括を行い、本稿を締めくくる予定である。

 

 

遺言

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のーてんき通信―エヴァンゲリオンを創った男たち

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戦後SF事件史---日本的想像力の70年 (河出ブックス)

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