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坪内祐三の災難・補記

まずは前後編をお読みください。

 

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「本の雑誌」2017年8月号掲載の『坪内祐三の読書日記』4月27日に以下の記述がある。同誌P.102より。

 朝起きたら右の臀部が痛くて起き上れないが、頑張って、食事したあと仕事場に向う(普段なら五~六分で到着する所が三十分近くかかる)。ゲラを戻し、原稿二本書いたのち、帰宅しようと仕事場を出るが、途中で足がまったく動かなくなり、携帯で電話し、「文ちゃん」の助け(肩)を借りてようやく自宅にたどり着く。

 重症である。坪内の日記からは「右の臀部」が痛くなった理由がわからないが、坪内の妻である「文ちゃん」こと佐久間文子『ツボちゃんの話―夫・坪内祐三』(新潮文庫)によると、

 その日の朝、起きたら、彼は歩けなくなっていた。前の日に酔っぱらって転び、打ちどころが悪かったらしいのだが、泥酔していた本人には記憶がない。

 尻餅でもついたのだろうか。上に掲げたエントリーにも記した通り、坪内は以前にも酒に酔って頭を打ち入院したことがあったので、気を付けてもらいたかったところではあるが…。まともに歩けないにもかかわらず、坪内は小沢信男の出版記念会に出席するために有楽町まで出かける(さすがに佐久間も同行している)。「本の雑誌」P.102より。

(前略)さいわい「慶楽」は店の前までタクシーで行ける。問題は二階に上る階段だが、手摺りにつかまって左手と左足だけで上って行けば良い(実際そうした)。(中略)そのまま帰宅したい所だが、このあと九時半からバー「ザボン」でテレビ番組の収録があるので、また三十分かけて移動(そんなに苦労したのに結局私の映像は番組で使われなかった)。

『ツボちゃんの話』によると「慶楽」と「ザボン」の距離は「五十メートルもない」とのことで、常識的に考えれば、そんな体調で出かけちゃダメだった、としか思えない。その後、5月1日の日記には「まだ完治には程遠い」と書きながらも図書館まで出かけているので、あまり長引かなかったようにも見える。治療した様子は坪内の日記からも佐久間の文章からも確認できないが、以前も書いたように坪内は「極端な病院嫌い」だそうなので、特に何もしなかったのではないか。

 このとき、坪内は外傷のために歩行困難になったわけだが、『ツボちゃんの話』には、亡くなる一年前の坪内は「ゆっくりしか歩けなくなった」とある。あれほど街を歩いていた人が、と思うとせつなくなるが、その頃から心臓の具合が良くなかったのだろう(坪内の死因については上掲エントリーを参照されたい)。個人的な経験を記しておくと、筆者の父親も数年前にごく近い距離を歩いても苦しくなったのがきっかけで、入院して心臓を手術したので(無事成功しました)、歩くのがキツくなったら心臓を診てもらうのが一番良いのかもしれないし、少なくとも放置するのは絶対に良くないと思う。

 

 

伊藤彰彦のふたつの追悼(余談多め)

 伊藤彰彦(1960~)は映画史家・映画プロデューサーとして知られ、筆者も以前『映画の奈落完結編』(講談社+α文庫)、『無冠の男・松方弘樹伝』(松方との共著・講談社)を大変興味深く読んだ。伊藤は福田和也と高校時代からの友人で、『映画の奈落』でも福田と映画を観に行った思い出話が書かれていたほか、『最後の角川春樹』(完全版は河出文庫)では福田へのインタビューも収録されていて、伊藤によると「あれは福田が元気だった最後の頃でした。」『なぜ80年代映画は私たちを熱狂させたのか』著者・伊藤彰彦ロングインタビュー(後編))とのことである。ただ、当該インタビューでの福田は、

 私もこの十年ほど、いろいろありましたからね。家出をしたり、病気になったり、友達が亡くなったり。でも今、生きてるし、美味いトンカツも食えるし、何とか原稿も書けて、有難いなあと思ってる。(後略)

「元気」ではあるにしても往年の活力は感じられずしんみりしてしまう(引用は電子書籍版に拠った)。それにしても、『保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである』(河出書房新社)表紙の福田は何度見ても衝撃的だ。
 その後、福田は2024年9月に亡くなり、「ユリイカ」2025年1月号で福田の追悼特集が組まれ、伊藤も『東田端の福田和也』という福田の家族にも取材したうえで故人との思い出も記した詳細な小伝を寄稿しているのだが、「いい話」ばかりでなく両親の介護をしなかったなど友人でありながら(だからこそ?)福田にとって痛いであろう箇所も指摘している。中でも、福田が文筆家としてデビューする前に家業である麺機製作所を手伝っていた際に、営業マンとして失敗して父や従業員たちに迷惑をかけたことについて書かれた、

彼は「保守とは横町の蕎麦屋を守ることである」と書いたが、蕎麦屋の麺を作る町工場の従業員は守らず、守れなかった。

という一節(同誌P.102)には強く衝撃を受けた。福田の言行不一致を鋭く衝きながらも、その一方で友人としての思いやりもしっかりあるので、出来の悪い追悼文にありがちな故人を貶める後味の悪さ(唐沢俊一の「追討」でよく見かけられた)もない見事な文章だったと個人的には思っている。


 以下は余談だが、前出「ユリイカ」の特集で筆者が最も驚愕したのが、大塚英志『福田和也の「駄々」』で、

 だから、ぼくが論壇から距離を取ろうと考え始めた時、彼を扱ったインタビューの場をわざと出版社の会議室にしてコンビニのペットボトルとサンドイッチを出した。それはぼくには普通の仕事の作法だったが、それで彼は怒って、以来、会っていない。

上の一文(同誌P.134)を目にしたとき、「ヒーッ!」と思わず悲鳴を上げてしまった。大塚も福田が「美食家」であるのは当然知っていたはずで、やることがすさまじいというかエグいというか……。


 話を戻す。「キネマ旬報」2020年3月上旬号に伊藤は『どうしようもなく厄介で人間臭い先輩』という坪内祐三(2020年1月に死去)の追悼文を寄せている。伊藤が坪内と初めて会ったのは、2010年7月に伊藤が企画・脚本を担当した映画『明日泣く』に坪内が出演した際で、伊藤は坪内の自信過剰さと演技の拙さ*1に驚いたり呆れたりしながらも、出会いがきっかけで坪内の著作を「欠かさず読む」ようになり「毅然たる態度に頭が下が」る思いがしたという。やがて伊藤は『映画の奈落』の出版にあたって坪内に相談に乗ってもらい、

わたしが文筆家としてデビューできたのは坪内のお蔭なのだ。

と深く感謝している(同誌P.39)。ところが、伊藤が『無冠の男・松方弘樹伝』を作成していた最中、「SPA!」2016年12月13日号掲載の坪内と福田の対談『これでいいのだ!』第653回(長期連載だったと改めて実感)で坪内が以下のような発言をする。同誌P.126より。

伊藤さんは今、松方弘樹の本を作ってるらしくて、すごくディープみたいなんだよ。松方もそろそろ亡くなるんじゃないかと思うけど―もしかしたら亡くなったあとに本を出すつもりで待ってるのかもね。本が売れて伊藤さんに小金持ちになってほしいよね。

理解に苦しむ放言、としか言いようがない。当時闘病中だった松方のために本の完成を急いでいた伊藤に対して余りに心無い言葉で(松方は残念ながら『無冠の男』発売前に亡くなった)、伊藤が講談社の編集者を通じて抗議したのも当然だろう。その後、坪内は「週刊ポスト」2017年3月24・31日号*2の書評欄で『無冠の男』を「伊藤彰彦が凄いインタビュー集を出した」「日本映画史的にも貴重な本だ」と褒めているのだが、だからといって取り返しがつく話でもない、と伊藤も思ったのか、前出「キネマ旬報」の坪内への追悼文は、

このように、坪内は人と人とを結び付け、人を持ち上げ、そして貶め、近年は酒場で理由もなく憤った。しかし、町でばったり会って目を見れば、すべてを水に流してしまいたくなる、どうしようもなく人間臭い先輩だった。

と複雑な思いを感じさせる締め括りになっている(同誌P.39)。


 再び余談になるが、このエントリーを書くために原典に当たるべく「SPA!」2016年12月13日号を手に取って『これでいいのだ!』をチェックしたところ、かなりビックリさせられる箇所があった。同誌P.125より。

福田 安倍ちゃんにしても、わざわざ暗殺しようって人はいないでしょう。


坪内 いや、安倍ちゃんを暗殺するのはやめてほしいよ。狙われるってことはそれだけ大物だったことだから。もし暗殺されたら大物だったってことになっちゃうからね。


福田 ははは、たしかに。

……まあ、もちろんブラックジョークのつもりだとは思うのだけど、しかしこうして現実のものとなってしまい、ジョークを飛ばした当人たちも亡くなってしまうと何も言えないというか(『これでいいのだ!』の他の回を読んでも、坪内と福田の安倍晋三への評価は低かったように見えた)。
 さらに余談。小谷野敦2012年7月22日のブログで取り上げている「en-taxi」Vol.36掲載の坪内のエッセイ『あんなことこんなこと』第4回は、小谷野が指摘しているエッセイ賞へのこだわりもよくわからないのだが、その前に年下の編集者に対して「売名行為」と書いていて、「どうしてこんな意地悪なことを書くのか」と思われてならなかった(坪内の文章を読んでもその編集者がそこまで悪質だとは思えない)。晩年の坪内は抑制を失っていたのか?と思わざるを得ないが(各種の追悼を見ても坪内はキレすぎで、長年組んでいた福田でさえ追悼文で「怒りっぽいところが苦手」と書いていた)、『これでいいのだ!』の伊藤への発言にしても「売名行為」にしても、編集者がカットすべきだった、とも思う。素人である筆者から見てもアウト判定なのにどうして通ったのか謎である(「en-taxi」の場合は坪内が責任編集だからだろうか)。


 話をまた戻す。「キネマ旬報」2020年3月下旬号で、『坪内祐三と映画』という座談会が組まれ、伊藤と内藤誠と高崎俊夫が故人の思い出を語っている。内藤は坪内主演の映画『酒中日記』を監督しているが、仕事場を撮影したいと提案したところ、坪内に「頑なに拒否」されたと語っているのが興味深い一方で、伊藤は前号の追悼文と同じく鋭い発言をしている。同誌P.148より。

坪内さんと話していて日活は一般映画の「赤ちょうちん」(74年、藤田敏八監督)は観に行ったけど、ロマンポルノは観なかったと聞いて驚きました。十代のころは、穏健なお坊ちゃん趣味だったんですよ。

もうひとつ、同誌P.150より。

坪内さんは頭に血が上るととたんに「捨て身」になるんですよ。この人は十代の頃、喧嘩で痛い目にあったことがない人だな、と思いました。

……福田の追悼文にも言えることだが、伊藤は坪内が「一番言われたくないこと」を言っているように筆者には感じられる(坪内は「実家が裕福」であると言われることにたびたび不快感を示していた)。しかし、それは故人を攻撃したいからではなく、友人だった福田と恩人だった坪内に真摯に向き合おうとした結果、そのような表現にならざるを得なかった、とも感じられる。褒めるばかりではなく、辛口な批評もまた追悼の在り方の一つ、と言えるのかもしれない。

酒中日記

酒中日記

  • 坪内祐三
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*1:いわゆる「眼高手低」というやつだが、坪内だけではなく、「ユリイカ」2025年1月号掲載の石黒隆之『I shall be released』でも、福田の「眼高手低」がよくわかっていたたまれなくなるので必読

*2:同号巻末の美術批評『眼は行動する』で坪内が「ビックリハウス」に否定的だったのは面白かった。筆者は「ビックリハウス」について調べようか、と思ったものの、先行研究がいくつかあるので断念したことがある

坪内祐三の災難(後編)

 坪内祐三が2009年1月に入院していたことはあまり知られてはいないかもしれない。『本の雑誌の坪内祐三』(本の雑誌社)の年譜(あまりに細かいことまで書いているので読み物として面白い)には、

新宿で酒を飲みすぎ、路上で転倒。救急車で運ばれ大久保の病院に入院する。二週間ほどで退院。

とある。また、『文学を探せ』(講談社文芸文庫)巻末の年譜には、

一月初旬、新宿の飲み屋を出たところで転んで頭を打ち、脳挫傷で一〇日間入院する。

とある。2つの年譜の内容にちょっとしたズレが存在するのを気にするのが我ながらヘンタイだと思うものの(坪内もそういう人ではあった、と自己弁護)、2009年当時、坪内は「小説現代」と「本の雑誌」で別々に日記を連載していたのだが(坪内の追悼特集が組まれた「ユリイカ」2020年5月号で亀和田武が「一時は日記を二種類も書いてどうするんだというふうに思ったけど(笑)」と言っているのに笑ってしまった)、1月初旬の日記を2つとも読んでも、どちらにも入院したとはっきり書かれていない。『書中日記』(本の雑誌社)を気を付けて読んでみると、2009年1月15日に、

朝、ちょうど一週間前に扶桑社のイキシンヤ君から見舞品としてプレゼントされた雑誌(後略)

という一節があるので、「やはり入院していたようだ」とわかるくらいである(もうひとつ言えば、いつもの通常回では出かけた先の地名がしっかり記載されているのだが、2009年1月初旬にはそういった表記はない)。また、もう一方の『酒中日記』(講談社)2009年1月20日には、

七時、大久保の「くろがね」。先週末までこの近くにカンヅメになっていて(後略)

とあり、この「カンヅメ」は入院を意味しているのだと思われるが、どうしてこんな風に伏せた書き方をするのか首を捻らざるを得なかった。

 そのヒントまたは答えになるのか、佐久間文子『ツボちゃんの話―夫・坪内雄三』(新潮文庫)に、2000年11月の事件で入院した時のことが書かれている。

 本人が連載担当者以外に入院のことはなるべく言わないでほしいと強く言うので、しばらくは友だちにも伝えなかった。(中略)

 入院を秘密にしたがったのは、殴られた顔が面変わりするほどひどい状態だったこともあるし、儀礼的なお見舞いが、とにかく億劫らしかった。

 結局のところ、他人に気を遣わせるのが嫌なだけだったのかもしれない、という気もする。実際、坪内は時間が経ってから自ら入院の事実を明かしているので秘密厳守というわけでもない(だから年譜にも記載があるわけだ)。福田和也との対談連載『これでいいのだ!』をまとめた単行本『無礼講』(扶桑社)のまえがきならぬ「まえ談」で次のように語っている。同書P.2より。

福田 (前略)あと、坪内さんは入院したじゃないですか。09年の正月早々に救急車で運ばれて。

坪内 今回の入院はたいした話じゃないからね。新宿で酔っ払ってコケて、頭打っただけだから。

福田 でも脳挫傷で、血圧も高いと聞いて心配でしたよ。もう大丈夫ですか。

坪内 大丈夫。自分で血圧マシン買ったし。ときどき血圧200超えますけど。

福田 200⁉

坪内 うん。

 続く部分でも坪内はユーモアを交えて語り(ネタにしている、と言ってもいい)、福田も同じく高血圧で、その影響で大学の授業中に鼻血が出た話を披露しているのだが、過去に健康診断であれこれ指摘されたことのある筆者としては個人的にもとても笑えない話で(坪内よりもマシな数値ではあったが、それでも結構厳しく言われた)、前にも掲げた『文学を探せ』巻末の年譜に、坪内の死因について「高血圧性心疾患による急性循環不全」とあるのを見ると何も言えなくなる。『ツボちゃんの話』によると坪内は「極端な病院嫌い」だったそうだが……。*1

 

 また、これとは別の「災難」もあったようだ。『続・酒中日記』(講談社)2012年2月17日にこんなことが書かれている。

(前略)一人で「富士そば」に入りカキアゲそば食べたあとトラブルに巻き込まれる。いったんは路上にたたきつけられた私が、起き上り、その若い男(テレビで見た吉本の芸人のような気がする)のあとを追っかけていったら(夕方の雪は雨に変っている)、その男はタクシーに乗って逃げた。帰宅は三時半(このあと数日、右半身の激痛に悩まされることになる―その際一番楽なのは原稿を書くことであることを発見)

 どうにも不思議な話である。トラブルになった経緯がよくわからないし、「芸人」が登場するのも突飛で、酔っぱらって幻でも見たのではないか、とも思えるが、「右半身の激痛」がある以上、夢でもなさそうだ。……というか、因縁をつけられて死にかけたこともあるのに何故「追っかけて」いっちゃうかね、と思ってしまう(「SPA!」の対談連載でもこのトラブルについて発言していて、相方の福田はドン引きした様子だった)。『ツボちゃんの話』には、

ツボちゃんは喧嘩が強くない。腕っぷしなら私のほうが強いぐらいで、ジャムの瓶のふたが固くて開かないと、だまって私のところへ持ってくる。それなのに、危険を察知し行動を抑制するメカニズムが壊れているのか、もともと備わっていないのか、明らかに危険な相手でも突っかかっていくので、そのたびに私はハラハラさせられた。

とあるので、生まれつきの性格としか言いようがないのかもしれない(「ジャムの瓶のふた」のくだりで、「やっぱり憎めない人だな」と思ってしまうけども)。

 あと、『昼夜日記』(本の雑誌社)2014年5月8日にはこのようにある。

 五十六歳の誕生日。体調きわめて悪し。血をけっこう吐く。定例の読書会の日だが、終了後、私は酒でなくカルピス飲む。

 ……いや、「酒でなくカルピス」で解決するような問題じゃないと思うのだが、と今更言ったところでむなしいだけかな。

 坪内にしても、坪内と長期にわたり対談していた福田にしても、坪内が高く評価していた西村賢太にしても、ついでに筆者が以前検証していた唐沢俊一にしても、「もっと身体を大事にしてほしかった」という思いがある。もちろん、彼らは彼らなりに懸命に生きてきたはずで、その生き方を尊重すべきなのかもしれないし、他人が軽々しく踏み込めない部分は確かにある、とも思う。筆者としては「もう若くもないのだから、もっと自分を守る努力をしよう」と彼らから勝手に教わったような気がしているのだが。

 

 

 

 

書中日記

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酒中日記

 

 

 

 

 

 

昼夜日記

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*1:ただし、日記を読むと歯医者に通っているのが確認できる

坪内祐三の災難(前編)

 坪内祐三(1958~2020)が2000年11月末に新宿で暴行を受け重傷を負ったのはよく知られていることかと思う。この事件に関しては、坪内自身がいくつもの文章を記していて、一番詳細なものは『文学を探せ』(現在は講談社文芸文庫)所収の「その夜の出来事」になるかと思うが、『文庫本福袋』(文春文庫)所収の文章が事件についてわかりやすく簡潔にまとめているので、そこから事件のあらましを紹介することにする。同書P.86より。

 実は、私は、今、都内の某病院に入院中である。長年の不摂生がたまって病に倒れたわけではない。

 十一月終わりの深夜、新宿の路上で私はヤクザ風の二人組に因縁をつけられた。その因縁を無視することなく、言葉を返すと、いきなり顔面にノックアウトパンチをくらい、一瞬気を失った私はボコボコにされた。

 そして都内の某病院の集中治療室に救急車でかつぎこまれたわけである。(後略)

 「ヤクザ風の二人組」から暴行を受けた坪内は財布を失くしてしまい、手帳の中にあったテレホンカード(四半世紀前の出来事なのだ)で自宅に電話をかけてからタクシーに乗り込むと、心配した運転手が交番に連れて行ってくれて、そこから救急車で病院に運ばれたという。殴られた顔面が2か所骨折していたのに加えて、腹部を何度も踏まれていたために内臓が破裂してしまい*1、開腹手術を2回行いバイパスを通したとのことで、生死に関わる大怪我だったことが察せられる(この辺の記述は、坪内本人の文章・発言とともに坪内の妻である佐久間文子『ツボちゃんの話―夫・坪内祐三』も参照した)。

 11月29日未明に暴行を受け、翌2001年1月22日に退院するまで、入院は約2か月に及んだ。苦しいはずの入院生活においても、「本の雑誌」を愛読する看護師に親切にされたり、「毎日新聞」と「スポーツニッポン」を楽しみにするなど、「ほっこり」するエピソードを記録しているのが坪内らしい、とも思えるが、後に坪内と「文壇アウトローズ」を組んで対談『これでいいのだ!』を長期連載することになる福田和也が、入院した坪内を見舞った際に立川志らくのCDをお土産を持参したのを、お腹を怪我した人に持っていくべきではなかった、と後になって反省していたのもまた、ほっこりエピソードのひとつに含めてもいいのかもしれない。

 

 ところで、坪内が事件当夜に何故新宿にいたかというと、『文学を探せ』所収の文章では、山の上ホテルで編集者と打ち合わせをした後で神保町の「なじみの居酒屋」で飲んでから、ゴールデン街の飲み屋でハシゴした帰り道で因縁をつけられた、ということになっている。坪内の記述では編集者の名前は「Aさん」として伏せられているが、これは当時筑摩書房の編集者だった松田哲夫のことである。松田が坪内に『明治の文学』全25巻の編集を依頼したのがきっかけで2人は親しくなったらしいが、実は松田も事件の場に居合わせ、その時の状況を記録している。『編集狂時代』(新潮文庫)P.431~432より。

(前略)気持ちよく酔った二人は、午前一時すぎ、家に帰ろうと靖国通りに出た。タクシーを探そうと先を歩いていたぼくは、後ろで何かが起こっていることに気がつき振り向いた。すると、坪内さんがすれ違ったヤクザ風の男たちに因縁をつけられ、顔面にパンチをくらっている。相手の男は、気を失った状態の坪内さんにのしかかるようにして、激しく顔を殴り、お腹を足で踏み続けている。ぼくは、慌ててそれを止めようと近づいてはみたものの、あっさり殴られて尻餅をついてしまった。

 この時、動転していたぼくは、意識が戻った坪内さんの停めてくれたタクシーに乗って家に帰ってしまった。(中略)ぼくの方は大した傷ではなかったが、それでも左の肋骨が三本折れ、肺挫傷と診断され、しばらく家で安静にしていた。

 つまり、事件の夜、松田も重傷を負っていたことになる。犯人は捕まっていない*2らしいが、無茶苦茶な暴れっぷり、としか言いようがない。その後、事件からちょうど1年経った2001年11月29日に坪内と松田は、山の上ホテル→神保町→ゴールデン街→靖国通り、と事件当夜と同じルートを辿る記念ツアーらしきことを取り行っている。……この2人に向かって言うのも今更な気もするが、物好きな人たちである。なお余談だが、『編集狂時代』は松田の半生記であると同時にある種の文化史でもあって、とても面白いのでおすすめしておきたい(この本を読んでから、「と学会」は路上観察学会の後追いなのでは?と思うようになった)。

 さらに、事件から2年目の2002年11月29日に坪内はこんな感慨を漏らしている。『酒日誌』(マガジンハウス)P.15より。

(前略)五反田を歩いていた時、そうだ今日で、例の事故にあって丸二年目だと思い出したのだが、山手通りと二四六が交差する角でバスとタクシーの接触事故を目撃すると、タクシーの運転手さんが、今日は何だかとっても事故が多い日です、さっきはバイク便がひっかけられてました、と言う。おと年のこの頃、私はとてもあわただしかったけれど、それは単に季節のせいだったのだろうか。

 生死をさまよってから時間が経過していくらか客観視できるようになった感じが、坪内風に言うなら「シブい」と思えたので引用してみた。

 

 事件から約5か月経過した2001年4月9日には坪内の「出版と快気を祝う会」が開催されている。「出版」は『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』(現在は講談社文芸文庫)についてで、会場は事件とも関係のある山の上ホテル。このイベントについて報じた「読売新聞」4月13日夕刊の記事は、

散会後は事件当日と同じく神保町、新宿ゴールデン街をはしごし、「以前の半分ぐらいの酒量」にまで復調した姿を実証してみせたという。

と締め括られていて、やはり「記念ツアー」を実施したらしい。ちなみに、『本日記』(本の雑誌社)2001年6月20日には、「読売人物データベース登録書類」に目を通した坪内が、自らのデータに「二〇〇〇年十一月、右翼の襲撃を受け、重傷を負った」と事実と異なる記述があるのに驚く場面がある。電話で抗議したところ、担当者は「当社の記事を元に」したと主張しているのだが、前掲の記事には「ヤクザ風の男」とあって、何故かヤクザ風→右翼と変換されてしまったようである。ただ、坪内が暴行を受けたのは『靖国』(現在は文春学藝ライブラリー)をめぐってトラブルがあったからではないか、という風評があったらしく、坪内の追悼特集を組んだ「ユリイカ」2020年5月号で中沢新一も言及している。これらの噂について坪内は「ひどく迷惑していた」(『本日記』より)と怒り心頭で、佐久間文子も「『靖国』を出した後、脅迫めいた行為は何も受けていない」(『ツボちゃんの話』より)と否定している。

 

 瀕死の重傷を負って以降も、坪内は以前通りかそれ以上の活躍を見せたわけだが、街に出て飲み歩くのも止めることはなかった。そして、新宿での事件ほどではないにしても別の形で「災難」に見舞われているのだが、それらに関しては「後編」で改めて記すことにして、筆者が個人的に複雑な感懐を抱かざるを得なかった坪内の文章をこのエントリーの最後に紹介しておきたい。「新潮45」2016年8月号掲載(坪内は「新潮45」にもしばしば寄稿していたが、同誌が休刊に至った過程に多大なショックを受けている)の『厄年にサイボーグになった私』の一節を以下に引用する。『みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。』(幻戯書房)P.365~367より。

 ちょうど二十一世紀に入ろうとする頃、二〇〇〇年暮、私は新宿で事故に遭い、死にかけた。(中略)

 三度の手術(その内一度は顔の手術)を経て復活した私はまるでサイボーグのようになってしまった。

 いや、実際、サイボーグになった。

 昔から私は大酒飲みであったが、それでも時に、ひどい二日酔をした。

 ところがその二日酔がまったくなくなってしまったのだ。

 どれだけ大量に(例えばウィスキーをボトル一本)飲んでも、まったく二日酔しない。

 二日酔というのは実は健康のバロメーターかもしれない。となると、私は超不健康なのだ。

 と言うより、私は既にあの時、死んでしまったのかもしれない。

 「事故以来二日酔いしなくなった」旨の発言を坪内が他の場所でもしていた記憶が筆者にはあって、「それは全然いいことじゃないでしょ……」と思った記憶もあるのだが(オタクなので『ドラえもん』のヘソリンスタンドを連想してしまった)、上の文章を見る限り、あまりいいことではない、と坪内本人も自覚していたようである。ともあれ、新宿での事件が、その後の坪内にとってかなり大きな影響を及ぼしたことは間違いないのだろう。(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

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*1:「読売新聞」2001年4月13日の記事には「腸隔膜破裂、腸閉そくなど」とある

*2:『ツボちゃんの話』によると坪内は被害届を出さなかったという

山田裕樹「文芸編集者、作家と闘う」

 山田裕樹「文芸編集者、作家と闘う」(光文社)は、集英社で30年以上にわたって文芸編集者をしてきた著者による大変面白い回顧録なのだが、その中で個人的に気になった部分があったので、いくつか紹介したい。まず筒井康隆と初めて会った時の話である。同書P.38~39より。

 どういう会話の流れか、その一週間ほど前に発売された小説誌に神(引用者註 山田は筒井の大ファンなので、筒井を「神」と呼んでいる)が書かれた「発明後のパターン」という作品の話になった。二枚ほどのショートショートの怪作だった。

 「意味不明な言葉を並べ立てているだけのなんの意味もない掌編」という書評のようなものをその日に読んだばかりだった。

 「誰もわかってくれないんだよね」と神。

 私の口が勝手に動いた。

 「意味不明な言葉の羅列、という評を読みましたが、法則性があるじゃないですか。あれはみんなハリウッドの俳優の名前を変換した単語でしょう」

 このくだりを読んで、「発明後のパターン」とはなつかしいな、と思わず笑ってしまった。内容に関して簡単に説明すると、何らかの大発明をした博士のもとに男がやってきて、というよくある話らしいのだが、単語がみんな「ハリウッドの俳優の名前を変換」されているために、かなり奇妙な出来栄えになっているショートストーリー、といったところだろうか。

 筆者は以前、唐沢俊一の検証本を頒布するためにコミックマーケットに参加した際に、「発明後のパターン」のパロディを書いたコピー紙をおまけとしてつけたことがあって、それで感慨深くなったわけである。オリジナルが「ハリウッドの俳優の名前」を変換したところを「唐沢検証の関係者」に置き換えただけのかなり安直なものだったので(元データを紛失して確認できないあたり安直さがうかがい知れる)、おまけではなく有難迷惑だったかもなあ、と今更反省しなくもない。まあ、唐沢検証自体が大いなる迷惑だった気もするが…。

 ただ、ひとつ気になったのは「発明後のパターン」についての「『意味不明な言葉を並べ立てているだけのなんの意味もない掌編』という書評」という部分だ。というのも、筆者はだいぶ昔に筒井ファンの父親から「ほら、これはハリウッドの昔の俳優の名前なんだよ」と教えられたことがあるからだ(エドワード・G・ロビンソンの名前もその時に知った)。編集者である山田だけでなく素人の父でも理解できたのだから、プロのはずの書評子がわからなかったというのはどうも…、と思われるのだが、とはいうものの、わからないものはとことんわからないものなので、「ハリウッドの俳優の名前」を変換したものだ、と説明したところで「だから何?」と返されるだけなのかもしれない。ちなみに、「発明後のパターン」は現在「定本バブリング創世記」(徳間文庫。電子書籍もあり)に収録されているのだが―「バブリング創世記」、「発明後のパターン」と並べるとわかりやすい気がする―、「天狗の落とし文」(新潮文庫。こちらも電子書籍あり)に「ハリウッドの俳優の名前」が新しくなった別ヴァージョンが収録されているので、興味のある方は読んでみるといいと思う。

 

 もうひとつ興味深かったのは、福田和也『作家の値うち』飛鳥新社)に一部賛同しながらも反論しているところで、福田は船戸与一の諸作品について、

(前略)著者の国際情勢認識はみなこういう類いの国際紛争デラシネ日本人という形式をとる。若い頃に五木寛之の作品を読みすぎたのか、あるいは『ゴルゴ13』の影響か。

などと酷評しているのだが(『作家の値うち』P.101より。なお、この前段部分でもかなり手厳しく船戸をやっつけていてヒヤヒヤさせられる)、船戸は実際に別名義で『ゴルゴ13』のシナリオを担当していたので(後年ノベライズも担当)、皮肉がたまたま的中したことになるのだろうか。

 

 あと、小林信彦が案の定気難しい人だったのにも笑ってしまったのだが、面白い部分を紹介しているとキリがないので、エンタメ小説ファンの方は実際に一読されることをおすすめしておく。

 

 

 

 

 

 

 

「落語家の業」に唐沢俊一が出演していた

 快楽亭ブラック主演のドキュメンタリー映画「落語家の業」唐沢俊一が出演していた。筆者が確認した限りでは唐沢が出演していたのは全部で4シーン。

 

① ブラックの著書「日本映画に愛の鞭とロウソクを」(1999年、イーハトーヴフロンティア)のプロデューサーとして出演したBOOK TV「活人生活」からの抜粋

② ブラックがTBSラジオの番組のゲスト出演後に心筋梗塞で倒れた際の証言

③ ②で入院したブラックの見舞いに行った際の映像

④ 2021年7月5日に開催されたイベント「談之助・唐沢の落語アカデミア」にブラックがゲスト出演した際の映像

 

 以上である。①について補足すると、「日本映画に愛の鞭とロウソクを」の巻末で唐沢は解説も担当している。また、④は映像がYoutubeにアップされているので、そちらを観てもらったほうがよろしいかと思う。

www.youtube.com

 唐沢がメガネをしていないのは、白内障の手術を受けて視力が回復したためだと思われる。21年の1月から4月まで入院していたので、衰えがかなり顕著で痛々しく見える。ちなみに、このイベントがブラックと唐沢が会った最後だったという。仲違いの理由が

ゴジラ FINAL WARS」だとは……。

ameblo.jp

 さて、②③については、ブラックが倒れたときに居合わせた唐沢が日記で詳細な記録をつけているのでここで紹介しておきたい。唐沢はWeb上で「裏モノ日記」を長期にわたって執筆していたが、サーバーの都合か何かで先頃閲覧できなくなってしまった。しかし幸いなことに、唐沢がパーソナリティーを務めていた「金曜ブジオ!」(2005年10月~2006年3月放送)の同人誌「金曜ブジオ!わたしのお兄ちゃん(違う)」で当時の日記が転載されているので、今回はその中から興味深い箇所をいくつか取り上げる。なお、上記の同人誌のタイトルは、「金曜ブジオ!」の副題「唐沢俊一のわたしのまわりは鬼ばかり」と「週刊わたしのおにいちゃん」をひっかけたものだと思われる。

 ブラックが倒れたのは、2005年10月21日放送の「金曜ブジオ!」に出演した直後のことで、調整室で倒れたブラックを小林麻耶アナ(彼女も「金曜ブジオ!」のパーソナリティーだった)が「膝枕をするように」寝かせている間に救急車が到着し、唐沢は所定の手続きのために質問に答えることになる。同書P.9~10より。

「名前は?」

「本名は福田と言いますが、芸名は快楽亭ブラックで」

「かいらく?」

「ええ、快くて楽しいという、あの快楽」

「住所は?」

「……さあ、最近離婚して引っ越したばっかりでちょっと」

「家族は?」

「……いや、誰もいなくて」

「会社とかは?」

「いや、こないだ所属組織から除名されたばかりで」

「連絡先は?」

「本人が持ってる携帯だけでしてねえ」

「連絡つく友人とかいないの?」

「その友人たちに借金こさえて総スカンくって」

「ご両親は存命?」

「母親はまだ生きているとは聞いてますが、朝鮮の人と再婚して向こうの人になっちゃってますしねえ」

 

と、まさしく落語のようなやりとりが展開されたという(もちろん唐沢の証言なので「盛っている」可能性は多分にあるが)。一方、倒れたブラックも、

救急隊員が「はい、そうです。患者は男性です」

とレシーバーで報告しているのを聞いて、

「あの、すいません、“たいへん二枚目の男性”と訂正してください」

と苦しい息の下から軽口を叩く。

 

(前略)酸素マスクの下から快楽亭、それを聞いて

「……(原因は)夕べの寿司だナ」

とつぶやいた。こんな状況下で思わず吹き出してしまう。

 

いずれも同書P.10より。生き死にがかかった場面でジョークを飛ばすのは「落語家の業」だろうか。この後、立川談之助をはじめとした落語家たちも駆けつけて(ブラックの息子も来ていた)、緊急事態に似つかわしくないユーモラスなやりとりが展開されていくのだが、いちいち引用するわけにもいかないのでひとつだけ、一段落ついた後で韓国料理屋に入った唐沢たちが最初にハツを注文したエピソードを一応紹介しておく。

 さて、翌週10月28日の「金曜ブジオ!」では、たまたまTBSに来ていた立川談志(もちろんブラックの元師匠である)が番組に乱入するというハプニングが発生する。同書P.14より。

「アー、ブラック、なに、死ンだの?」

「いや、生きてますー!」(まやや)

という感じで談志調全開。

「病院、どうするつもりかネ。アイツ、金ねえンだから。知らねエで置いているンで、知ったらすぐ追ン出されんじゃねエの?」

などとトバすトバす。

 ただし、その口調の中に、いかにも芸人らしい芸人であるブラックの生き方への肯定がばしばしと感じられる。

「……だから、除籍ッてのは野暮なことなンで、本当はしたくなかったンだが、このまま放っとくとオレの金にまで手ェつけられそうで……」

しゃべりはとまらず。

 

 いい話だ。番組の音源が残っていたら映画で使えばよかったんじゃないかなー。で、さらに翌週11月4日の放送前に唐沢はおぐりゆかと一緒にブラックの入院先まで見舞いに訪れて、この模様は映画の中でもそのまま使われている。同書P.15より。

 やはり先客あり。梅山さんがカメラ回しているところに二人で言って(原文ママ)、ちょっと話をテープにとらせてもらう。

「麻耶やのお尻のようなふっくらした桃缶を早く食べたいどぇーす」と、どこまでも不謹慎な男である。

 

 なお、小林麻耶は「落語家の業」を鑑賞して不快感を表明している。

 筆者も先日「落語家の業」を観に行ったが、大須演芸場強制執行「実況中継」(席亭のクセがすごい)と裁判の賠償金の解決手段が圧巻すぎて「世の中にそんなことがあるんだ……」と呆然としてしまった。ブラックのファン、落語愛好家ならずとも人間と世間の奥深さを知るうえで一見の価値のある作品であると個人的にはおすすめしておきたい。

rakugokanogou.com

 

 

 

山本弘「輝きの七日間」

 山本弘「輝きの七日間」上下巻(河出文庫)を読んだ。「SFマガジン」2011年4月号から2012年10月号にかけて連載された小説なのだが、事情があって山本の存命時に単行本化はなされなかった。その「事情」については、著者である山本本人も生前にX(旧Twitter)で語っていた。

 詳しい事情を知りたい方はこの後の一連のポストか、「輝きの七日間」下巻の大森望による解説を参照されたい(上巻の解説は山本と親しかった友野詳が担当していて、こちらも興味深い内容である)。

 さて、「輝きの七日間」のあらすじをざっと語ってしまうと、ベテルギウスの超新星爆発によって発生した未知の粒子が地球に到来したことで、全生命(「全人類」でないのがキーポイントであり、これまで単行本化されなかった「事情」の遠因にもなっている)の知能が飛躍的に向上したこと、そしてその現象がわずか7日間しか保たないと判明したことによって世界中で混乱が生じていく……、というものになるだろうか。「アルジャーノンに花束を」をワールドワイドに拡大させた話、と言えばわかりやすいかもしれない。

 2024年3月に亡くなった山本の「新刊」ということで、筆者も購入して一読したのだが(電子書籍はないので文庫版を買った*1)、少なからず首を捻らざるを得なかった、というのが正直な感想である。一番の齟齬は、筆者と山本とでは「知能」の捉え方が違っていて、「仮に人間の頭が良くなったとしてもそうなるものだろうか?」と何度も気になってしまったのだ。もうひとつは、どうにも「説教臭い」ことで、「まあ、おっしゃりたいことはわかりますが……」と読み進めながら若干辟易させられたのは否めない。ただし、この「説教臭さ」については、「輝きの七日間」の最終盤で自己言及めいた文章があるので、山本は自らの「説教臭さ」をはっきり認識しつつも、それでもあえてこの物語を書き上げた、と理解するのが正しいように思う(山本の小説の「説教臭さ」は以前から指摘されてはいた)。その主張に同意しないまでも、冷笑主義が蔓延する現状にあって理想主義を貫こうとした山本の姿勢には頭が下がる思いがするし、その点において「輝きの七日間」という作品には一読する価値があるかと思う。

 先に文句を言ってしまったが、筆者が「輝きの七日間」を楽しんで読んだのは間違いない。たとえば、人類の知性が向上した効果のひとつとして、「オカルト番組のインチキに気づく」のが描かれているのは、「と学会」の会長として長年活躍した山本ならではで笑ってしまったし、また知性の向上によって陰謀論やデマなどの迷妄から人々が解放される描写などは、本作で書かれた山本の「希望」のひとつなのだろう、という気がする。しかし、筆者が本当に大笑いしたのは以下のくだりである。「輝きの七日間」上巻P.173より。

 ロシア・ノヴォシビルスク―

 現地時間一二月八日日曜日午前〇時(グリニッジ標準時七日午後六時)―

 深夜、自宅の書斎で、他人の論文からカット・アンド・ペーストして論文をでっち上げる作業をしていた大学教授が、突然、自分の行為の愚かさに気づいた。

「なぜこんな幼稚なことをやってもバレないと思っていたんだ?」彼は愕然となっていた。「何十年も前ならともかく、今は関連する論文なんかネットで簡単に検索できて閲覧できるんだぞ。誰かが比較したら一発で盗用だって分かるじゃないか。私の学者生命はそれで終わりなんだぞ。なぜそんな無謀なギャンブルをやろうと思った⁉」

 ははははは! いやー、実に痛烈。だって、「コピペなんかする奴は頭が悪い」って言ってるのと同じなんだもの。これは「例の件」に対するアンサーとして受け取っていいんですよね? と言ったら天国の山本に怒られそうなので止しておくにしても(山本は「天国」を信じてなかったと思うが)、喜んでしまったのは事実なので仕方がない。なお、上の文章と関係があるかどうか定かではないが、リンクを一応貼っておく。

kensyouhan.hatenablog.jp

 というわけで、「輝きの七日間」をみなさんにおすすめしたいところである。もともと筆者は山本の小説の良い読者とは言えない。SFでありつつも私小説の要素を多分に含んだ「去年はいい年になるだろう」(PHP文芸文庫。電子書籍でも入手可)は面白く読めたので、山本の本領であったSF的感性に筆者が乏しいためかと思う。

kensyouhan.hatenablog.jp

 筆者はむしろオタクの先達としての山本に敬意を持っていて、唐沢俊一検証を進める過程において、あまり望ましくないかたちであっても生前の彼と接点を持てたのは、今でもそれなりに良い思い出として残っている。そんなわけなので、山本とは検証と無関係な場所で他愛のないオタク話を一度してみたかった、と今でも思うし、彼が「ゴジマイ」や「ジークアクス」を観ずに逝ってしまったのが残念に思われてならない(「アポカリプスホテル」も好きそう)。なお、筆者がいずれ書く予定の「長文」で山本も登場する予定なので、その際に山本についてはまた改めて語ることになるかと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

*1:その後電子書籍版も発売された