坪内祐三(1958~2020)が2000年11月末に新宿で暴行を受け重傷を負ったのはよく知られていることかと思う。この事件に関しては、坪内自身がいくつもの文章を記していて、一番詳細なものは『文学を探せ』(現在は講談社文芸文庫)所収の「その夜の出来事」になるかと思うが、『文庫本福袋』(文春文庫)所収の文章が事件についてわかりやすく簡潔にまとめているので、そこから事件のあらましを紹介することにする。同書P.86より。
実は、私は、今、都内の某病院に入院中である。長年の不摂生がたまって病に倒れたわけではない。
十一月終わりの深夜、新宿の路上で私はヤクザ風の二人組に因縁をつけられた。その因縁を無視することなく、言葉を返すと、いきなり顔面にノックアウトパンチをくらい、一瞬気を失った私はボコボコにされた。
そして都内の某病院の集中治療室に救急車でかつぎこまれたわけである。(後略)
「ヤクザ風の二人組」から暴行を受けた坪内は財布を失くしてしまい、手帳の中にあったテレホンカード(四半世紀前の出来事なのだ)で自宅に電話をかけてからタクシーに乗り込むと、心配した運転手が交番に連れて行ってくれて、そこから救急車で病院に運ばれたという。殴られた顔面が2か所骨折していたのに加えて、腹部を何度も踏まれていたために内臓が破裂してしまい*1、開腹手術を2回行いバイパスを通したとのことで、生死に関わる大怪我だったことが察せられる(この辺の記述は、坪内本人の文章・発言とともに坪内の妻である佐久間文子『ツボちゃんの話―夫・坪内祐三』も参照した)。
11月29日未明に暴行を受け、翌2001年1月22日に退院するまで、入院は約2か月に及んだ。苦しいはずの入院生活においても、「本の雑誌」を愛読する看護師に親切にされたり、「毎日新聞」と「スポーツニッポン」を楽しみにするなど、「ほっこり」するエピソードを記録しているのが坪内らしい、とも思えるが、後に坪内と「文壇アウトローズ」を組んで対談『これでいいのだ!』を長期連載することになる福田和也が、入院した坪内を見舞った際に立川志らくのCDをお土産を持参したのを、お腹を怪我した人に持っていくべきではなかった、と後になって反省していたのもまた、ほっこりエピソードのひとつに含めてもいいのかもしれない。
ところで、坪内が事件当夜に何故新宿にいたかというと、『文学を探せ』所収の文章では、山の上ホテルで編集者と打ち合わせをした後で神保町の「なじみの居酒屋」で飲んでから、ゴールデン街の飲み屋でハシゴした帰り道で因縁をつけられた、ということになっている。坪内の記述では編集者の名前は「Aさん」として伏せられているが、これは当時筑摩書房の編集者だった松田哲夫のことである。松田が坪内に『明治の文学』全25巻の編集を依頼したのがきっかけで2人は親しくなったらしいが、実は松田も事件の場に居合わせ、その時の状況を記録している。『編集狂時代』(新潮文庫)P.431~432より。
(前略)気持ちよく酔った二人は、午前一時すぎ、家に帰ろうと靖国通りに出た。タクシーを探そうと先を歩いていたぼくは、後ろで何かが起こっていることに気がつき振り向いた。すると、坪内さんがすれ違ったヤクザ風の男たちに因縁をつけられ、顔面にパンチをくらっている。相手の男は、気を失った状態の坪内さんにのしかかるようにして、激しく顔を殴り、お腹を足で踏み続けている。ぼくは、慌ててそれを止めようと近づいてはみたものの、あっさり殴られて尻餅をついてしまった。
この時、動転していたぼくは、意識が戻った坪内さんの停めてくれたタクシーに乗って家に帰ってしまった。(中略)ぼくの方は大した傷ではなかったが、それでも左の肋骨が三本折れ、肺挫傷と診断され、しばらく家で安静にしていた。
つまり、事件の夜、松田も重傷を負っていたことになる。犯人は捕まっていない*2らしいが、無茶苦茶な暴れっぷり、としか言いようがない。その後、事件からちょうど1年経った2001年11月29日に坪内と松田は、山の上ホテル→神保町→ゴールデン街→靖国通り、と事件当夜と同じルートを辿る記念ツアーらしきことを取り行っている。……この2人に向かって言うのも今更な気もするが、物好きな人たちである。なお余談だが、『編集狂時代』は松田の半生記であると同時にある種の文化史でもあって、とても面白いのでおすすめしておきたい(この本を読んでから、「と学会」は路上観察学会の後追いなのでは?と思うようになった)。
さらに、事件から2年目の2002年11月29日に坪内はこんな感慨を漏らしている。『酒日誌』(マガジンハウス)P.15より。
(前略)五反田を歩いていた時、そうだ今日で、例の事故にあって丸二年目だと思い出したのだが、山手通りと二四六が交差する角でバスとタクシーの接触事故を目撃すると、タクシーの運転手さんが、今日は何だかとっても事故が多い日です、さっきはバイク便がひっかけられてました、と言う。おと年のこの頃、私はとてもあわただしかったけれど、それは単に季節のせいだったのだろうか。
生死をさまよってから時間が経過していくらか客観視できるようになった感じが、坪内風に言うなら「シブい」と思えたので引用してみた。
事件から約5か月経過した2001年4月9日には坪内の「出版と快気を祝う会」が開催されている。「出版」は『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』(現在は講談社文芸文庫)についてで、会場は事件とも関係のある山の上ホテル。このイベントについて報じた「読売新聞」4月13日夕刊の記事は、
散会後は事件当日と同じく神保町、新宿ゴールデン街をはしごし、「以前の半分ぐらいの酒量」にまで復調した姿を実証してみせたという。
と締め括られていて、やはり「記念ツアー」を実施したらしい。ちなみに、『本日記』(本の雑誌社)2001年6月20日には、「読売人物データベース登録書類」に目を通した坪内が、自らのデータに「二〇〇〇年十一月、右翼の襲撃を受け、重傷を負った」と事実と異なる記述があるのに驚く場面がある。電話で抗議したところ、担当者は「当社の記事を元に」したと主張しているのだが、前掲の記事には「ヤクザ風の男」とあって、何故かヤクザ風→右翼と変換されてしまったようである。ただ、坪内が暴行を受けたのは『靖国』(現在は文春学藝ライブラリー)をめぐってトラブルがあったからではないか、という風評があったらしく、坪内の追悼特集を組んだ「ユリイカ」2020年5月号で中沢新一も言及している。これらの噂について坪内は「ひどく迷惑していた」(『本日記』より)と怒り心頭で、佐久間文子も「『靖国』を出した後、脅迫めいた行為は何も受けていない」(『ツボちゃんの話』より)と否定している。
瀕死の重傷を負って以降も、坪内は以前通りかそれ以上の活躍を見せたわけだが、街に出て飲み歩くのも止めることはなかった。そして、新宿での事件ほどではないにしても別の形で「災難」に見舞われているのだが、それらに関しては「後編」で改めて記すことにして、筆者が個人的に複雑な感懐を抱かざるを得なかった坪内の文章をこのエントリーの最後に紹介しておきたい。「新潮45」2016年8月号掲載(坪内は「新潮45」にもしばしば寄稿していたが、同誌が休刊に至った過程に多大なショックを受けている)の『厄年にサイボーグになった私』の一節を以下に引用する。『みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。』(幻戯書房)P.365~367より。
ちょうど二十一世紀に入ろうとする頃、二〇〇〇年暮、私は新宿で事故に遭い、死にかけた。(中略)
三度の手術(その内一度は顔の手術)を経て復活した私はまるでサイボーグのようになってしまった。
いや、実際、サイボーグになった。
昔から私は大酒飲みであったが、それでも時に、ひどい二日酔をした。
ところがその二日酔がまったくなくなってしまったのだ。
どれだけ大量に(例えばウィスキーをボトル一本)飲んでも、まったく二日酔しない。
二日酔というのは実は健康のバロメーターかもしれない。となると、私は超不健康なのだ。
と言うより、私は既にあの時、死んでしまったのかもしれない。
「事故以来二日酔いしなくなった」旨の発言を坪内が他の場所でもしていた記憶が筆者にはあって、「それは全然いいことじゃないでしょ……」と思った記憶もあるのだが(オタクなので『ドラえもん』のヘソリンスタンドを連想してしまった)、上の文章を見る限り、あまりいいことではない、と坪内本人も自覚していたようである。ともあれ、新宿での事件が、その後の坪内にとってかなり大きな影響を及ぼしたことは間違いないのだろう。(つづく)