小林信彦・片岡義男『星条旗と青春と―対談:ぼくらの個人史ー』(角川文庫、1984年)という本がある。サブタイトルに「個人史」とあるように、小林・片岡両氏がお互いの経験を語っていくうちに戦後の日本がたどった変化が見えてくる興味深い本なのだが、第4章「一九七〇年代 昨日を超えて」の中で、小林氏が処女作である評論本『喜劇の王様たち』について語っているくだりがある。1963年に校倉書房から出た『喜劇の王様たち』は全く売れず小林氏も意気消沈していたのだが、1970年になって大光社から改めて出し直すことになる。小林氏の『1960年代日記』(ちくま文庫、1990年)によれば(1970年11月20日の項)、最初の『喜劇の王様たち』は古書市で定価の倍の値段がついていたとのことで、小林氏が「おれの本が古本屋で値上がりしたなんて、光栄。お赤飯たいてお祝いだあ!」と素直に喜んでいるのが微笑ましい(同書P.295)。
ところが、大光社から申し出があって1週間も経たないうちに今度は晶文社からも『喜劇の王様たち』を出したい、という申し出が来て、小林氏は晶文社の編集者と会って断りを入れたうえで、別の喜劇の本を出す約束をする。以下は『星条旗と青春と』P.160~161から。
小林 (前略)それでまた 晶文社の人が来るようになって、名前はAというふうにしたほうがいいでしょうけども、彼に、「ぼくの本を出したって売れないですよ。どういうお考えですか」ときいたら、「うちは、サブカルチャー路線といってグリーンブックスというのを出そうという企画になって、何冊か出したけど、まだ軌道に乗ってないんで、それで……」。植草(引用者註 甚一)さんの本が一冊か二冊出てたんですよね。だけど、それもそんな派手な騒ぎになるときじゃなくてね。それで、そういう路線をつくるんで、何でもいいからとりあえず出させてくれという話だったんです。
そのA君、当時まだ学生なわけです。一橋の学生です。もうすぐ卒業だというんですよね。何かのときに卒業してどういう仕事に入るつもりですかと聞いたんですよ。一橋の学生だから、当然、大会社でしょう、ぼくらのイメージでいうと、そしたら<植草甚一さんみたいになりたい>というんですね。それから、てんぷくトリオの初期のテープを持ってて、いまのてんぷくトリオと聞き比べたりしてるというから、変な人が出てきたなあと、心の中で思った。そのころ、あんまりそういうタイプのノンポリ青年は、いないですよ。ギャグにも興味があるけども、やっぱり三島由紀夫の死に対しては思いをいたすというタイプが非常に多かったですよね。それの残党というか、その時代でしょう、七〇年という年は。そのときに片っ方はてんぷくトリオの初期の……初期といったって、そのころからまだ四、五年前だけどさ、それを聞いて、何がおもしろいとか、あれがおもしろいとかね。で、けっこう古いことも、知ってるんですよ。ぼくにとってはわりにそういうことというのは大事なことでもあるけども、世間一般からみればくだらないですよね。そういうものが興味もたれるというのは、これはどういう時代なのかなと思った。
この「A君」については後でもう少し詳しく説明するとして、翌71年に「A君」が広告代理店に入社したので、「B君」が小林氏の担当に就くことになる。『星条旗と青春と』P.164~166より。
小林 (前略)B君、あんまり喋らないわけです、考えていることを。このタイプが、実は七〇年代、一番多いんだろうと思います。こっちが一つ一つ何か聞くと、それに対しては「ええ」とか、「いいえ」とか答えるけども、何も積極的なコミュニケーションがないわけです。ぼくは不安だったわけですよ。で、だんだん話を聞いてみると、いろいろ知識はあるわけです。たとえば向こうの映画の研究誌なんか、何種類かとって、自分のうちに持ってるわけです。それで、批評家のことを、あの人は知識がないとか、チラッといったりするわけです(笑)。
知識を無限に、極端にいうと、自分のどこかにため込んでて出さないというタイプ。それから、内心、それが他人にわかってたまるかという感じのこのタイプが、実は七〇年代、一番多いとぼくは思ったですね。ぼくらの年代だと、生活問題があったから、そういうふうに知識をため込んだとしても、あるていど吐き出す形になる。で、B君がというんじゃないけど、このタイプの人々は、総じて、ものすごく幼児的な、子供がオモチャをしまい込んで放さないというような……。
片岡 子供がオモチャをため込んで、自分だけで部屋のなかで遊ぶというような感じでの知的活動の領域は、ずいぶん増えましたね。
小林 そうなんです。非常に極端にいうと、いまの<ウォークマン>なんですよ。 外を歩いてても自分の中にこもっちゃってるわけです。
(中略)
内的には完全に秩序みたいなものができてるけど、他人との対話というのはないわけです。
このA君とB君の話を読んだ時、
「完全にオタクの話じゃないか」
としか思えなかった。「くだらない」とされているものに熱中するA君も、知識はいっぱいあるのに積極的にそれを出そうとしないB君も、今で言えばオタクである。特にB君の話は他人事とは思えなくて筆者の胸に刺さりまくりだ。自分も「他人にわかってたまるか」とは行かなくても「別にわからなくてもいい」とは思っちゃってるな…。
筆者が岡田斗司夫氏や唐沢俊一氏などの「オタク第一世代」とやらに乗れないのは、「オタク第一世代」以前からオタク的気質を持った人はいた、と感じていたからだが(それこそ小林信彦氏もそうだ)、『星条旗と青春と』を読んだことでそれは確信へと変わった覚えがある。もっとも、筆者も以前は「連合赤軍事件あたりを境目に若者が政治や社会からサブカルチャーなどに興味を持ち出したのではないか」という雑な認識をしていたので、他人のことはあまり言えない。とはいえ、政治や社会からサブカルチャーへ、という変化が確かにあったことは小林氏のコメントからうかがえる。同書P.163~164より。
小林 (前略)たとえば一九六〇年ごろ大島渚が「日本の夜と霧」をつくって、日共をバッサリ斬って、スターリニズムをバッサリ斬る。これはすばらしい映画だったのですが、そのあとで、映画を全部政治思想で解読するというような滑稽な映画批評の流行した時期があったわけです。そういうときに、ぼくはヒッチコックとかビリー・ワイルダーなんかを一人で批評してたわけで、結局、流行から外れたわけです。<ただいま苦戦中>とまで、イヤ味を書かれた。ところが、べつに偉そうなことをいうわけじゃないんですけども、七〇年になると、世の中のほうがスーッとこちらにすり寄ってきたという感じはあるんですよね。
63年に出した『喜劇の王様たち』は売れなかったのに、71年に新装版が出ると書評がたくさん出て、「世の中そのものが、あの辺でかなり変わった」と小林氏は語っている(P.164)。わずか8年でも変われば変わる、ということだろうか。
そのような変化をもたらしたものは何か、といえば、経済的に豊かになったことではないか、と思われる。同書P.162~163より。
小林 七〇年当時大学へまだ行ってた、いまの話のA君が車に乗ってて、あっちこっち、じゃ、お連れしましょう、なんていって連れていったからね。そのころでも大学生が車に乗ってるというのは、ま、一部の大金持ちの息子は別として、ぼくはかなり異様な気がしましたよ。(後略)
小林氏が知っているのかは不明だが、「A君」の実家は開業医である。また、先に名前を挙げた岡田氏も唐沢氏も実家は裕福なようなので、そういった経済的事情と趣味の関連性については決して無視できない、と思うのだが(ピエール・ブルデューみたいだけど)、それはさておき。豊かになることで、若者たちが趣味に走るようになったことを、片岡氏は対談の中で何度か指摘している。同書P.162、165、172より。
片岡 経済力の窓口が広がると、いろんなものが商品として成立するようになるわけです。それまで考えられなかったようなものが商品になり得るわけで、買う人もまた出てくるわけです。(後略)
片岡 子供がオモチャをため込んで、自分だけで部屋のなかで遊ぶというような感じでの知的活動の領域は、ずいぶん増えましたね。
片岡 趣味の世界へいく以外ないでしょうね。で、生活自体は、中心的な価値観がないわけだから、ひと皮むけば、むちゃくちゃですよね、日々。
やっぱりオタクの話をしているんじゃないかなあ。豊かになることで戦後の日本がどのように変わったか、は『星条旗と青春と』を通じてのテーマで、豊かになってから生まれた筆者には実感しづらい話も多かったのだが(それだけに貴重な本である)、以下に引く小林氏の話も読んでいて思わず首を捻ってしまった。P.166より。
小林 (前略)いろんな知識をため込んでて、世間に対するときは(ぼくらもある程度はそうですが)別な顔を見せて、一応会社に勤めなきゃいけないから、会社にいるときは普通の会社員で、その会社でちゃんとやる。自分一人になったときは徹底的に趣味の領域に入っちゃうという人間がものすごく増えたですね。それはもう、びっくりするくらい多い。それで、必ず、そういうタイプの人は口ごもったり、ちょっとどもったりする。
(中略)
昔の小説の題名でいうと、「自分の穴の中」に入っちゃう、<穴の中人間>みたいなのというのはものすごく多いです。一応食うためとか世間体で勤めるから、世間に出たときは別な顔をしてるけども、収入は全部自分の趣味に使う。しかも、ジャンルの全体には興味がない。音楽でも、ロックならロックのある部分に関してはものすごく詳しいけど、ほかの部分は全然聴かない、興味がないとかいう人が非常に多くなったですね。
仕事と趣味を切り替える、オンオフがはっきりしているのは別に悪いことではないと思うのだが、小林氏の語り口はどこか否定的だ。それに少し驚かされるのは、「口ごもったり、ちょっとどもったり」にしても「ジャンルの全体には興味がない」にしても、これらの理屈が対談から40年近く経った今でもオタク批判として流通していることだ。しかも、それがオタクの先行者として見られている小林氏の口から出ていることにも戸惑う。また、この本の別の箇所では、次のようなくだりもある。P.163より。
小林 (前略)ぼく、植草さんは、よく趣味人といわれるけど、必ずしもそういうふうにいい切れない、非常に複雑な要素を持った人だと思うけれども、その歪んだ影響下の若い人たちは……。
またしても否定的である。「近頃の若い者は」なのか、はたまた同族嫌悪なのか。なお、オタクの先行者によるオタク批判、については後で再度触れることにする。
どうしてそこまで否定的なんだ、と思いながらも、小林氏が否定的な理由をなんとか探してみると、上の発言に先立って、
小林 ぼくらの年代だと、生活問題があったから、そういうふうに知識をため込んだとしても、あるていど吐き出す形になる。
と言っている(P.165)ことからなんとなく察することができる。つまり、仕事と趣味をはっきり分けることができない、趣味を仕事にせざるを得なかった経験が小林氏に否定的な感情を持たせているのではないか。筆者が小林氏の発言に違和感を持ったのは、生まれつき趣味と仕事を区別できる程度の豊かさが実現した環境にいたからに過ぎない気もする。ジェネレーション・ギャップ、と言ってしまえばそれまでだが。
さて、ここで話を変える、というよりは、視点を変える。『星条旗と青春と』を読んだ時にひとつ気づいたことがある。
「この『A君』って高平哲郎じゃないの?」
それに気づけたのは、高平氏の『ぼくたちの七〇年代』(晶文社、2004年)を先に読んでいたからなのだが、同書P.34にはこうある。
晶文社に出した絶版本の復刊企画が二本とも通った。
(中略)
もう一冊は中原弓彦さんの『喜劇の王様たち』。これはタッチの差で別の出版社から『笑殺の美学』のタイトルで出版が決まっていた。そこで津野(引用者註 海太郎)さんの出番になり、中原さんの書かれたエッセイのアンソロジー『笑う男』が小林信彦名で出版されることになった。憧れの人に会えることが嬉しかった。
『喜劇の王様たち』に関するエピソードが一致している。依頼した側、された側の証言が両方あるのになんだか興奮してしまうのが我ながら変態っぽい。と言っても、小林氏の『1960年代日記』には、『喜劇の王様たち』に関連して高平氏の名前が明記されているので、別段秘密でも何でもないのだが(『1960年代日記』も読んでいたのに失念していた筆者が迂闊なだけか)。『1960年代日記』によると、大光社から依頼があったのが、1970年11月20日で、晶文社から電話で依頼があったのが12月2日、そして翌3日に小林氏と高平氏が面会している。本当に「タッチの差」だったのだ。『1960年代日記』P.299より。
1時、「タキ」にて、晶文社の高平という、元気のないアーロ・ガスリーみたいな人に会う。昭和21年生れというと、24ぐらいか。(注・高平哲郎氏。当時は一橋大学の学生だった。)
小野二郎という「新日本文学」編集長の義弟という。いきなり、晶文社の出版リストを出して、欲しい本に丸をつけろ、全部あげる、という。オモシロイ。
私のファンであり、これからの出版は、世の不要なもの、無用のものほど、いいという。ずっと、無用なことばかりやってきた私には、ありがたい話なり。(後略)
「世の不要なもの、無用のものほど、いい」というのは、その後の時代の変化を予見しているようで、高平氏には先見性があったとうかがえる。と言うよりは、『喜劇の王様たち』の受容のされ方の変化を見ても、70年代には既に「不要」で「無用」のものを許容するだけの雰囲気がある程度出来上がっていたのだろう。
さて、高平氏に関してはオタクではなくオタク的気質を持った人なのだろうと思う。小林氏が話しているてんぷくトリオの件にしても、少年時代に観たアチャラカに大人になってもこだわっているあたりにそれはうかがえる(高平氏の少年時代については『銀座の学校』に詳しく書かれている)。また、晶文社で高平氏とともに仕事をしていた津野海太郎氏も、高平氏と初対面の時に「うわあ、こいつは文化が違うや」と感じ、「こののち急速に消費社会化してゆく日本にあらわれた最初のサブカルチャー世代」と高平氏について評している(津野氏の『おかしな時代』P.320より)。
ただ、現在のオタクについて、高平氏は明確に否定的で、たとえば『ぼくたちの七〇年代』でも、クレイジーケンバンドのライブに行って、若い観客が「秋葉原のDVD売場で見るアニメオタクと同類」に見えて、もう帰ろうかと思っている(同書P.11~12)。それに加えて、高平氏は現在のサブカルにも否定的である。『ぼくたちの七〇年代』P.22より。
(前略)面白いのは、その六〇年代初頭生まれがサブカルチャーを自分たちの青春のバックボーンのように言うことだ。連中はサブカルと呼ぶ。大衆に迎合しない単館上映映画や現代アートがそうで、アニメやB級映画の批評こそがそうで、マイナー嗜好もそうらしい。それだけ聞けばぼくらの時代のサブカルチャーと変わらない。しかし彼らのサブカル的なものは九〇年代に入ってメインになったらしい。中にはサブカルチャーの死は八〇年代半ばに訪れたと公言する者もいる。自分こそ消滅してゆくサブカルチャーの最後の体験者とでも言いたいのかもしれない。だがぼくらにしてみると、彼らが体験したサブカルチャーは、とっくにメインになりかかっていたサブカルチャーの残滓に過ぎない。サブカルチャーは八〇年代初頭で消えた。そして九〇年代にはジャンルの消失と共にいかようにも存在しなくなってしまったのだ。
かつて小林氏に否定的に語られていた高平氏が後発の世代を否定的に語り、その後発の世代である岡田氏や唐沢氏(彼らは「五〇年代後半生まれ」だが)がさらに後の世代を否定するという。地獄だ。
高平氏の言葉をもう少し見てみよう。 同書P.23より。
(前略)そうしたサブカルチャーのメイン化で、ぼくが一番そばで体験したのは、タモリ、ツービート、所ジョージといった反体制とも言える面々が八〇年代初頭に次々にメイン・ステージを飾り始めたときだ。その時点で、それまでサブカルチャーと呼ばれたものが消失したと実感した。本来表に出られないようなネタが表に出てしまったのだ。体制に対しての反体制、メインに対してのサブ、年長者に対しての「いまの若い者」―そうした対立の弱い方の立場にいたはずのサブカルチャーが、八〇年代以降その行き場を失ってしまったのだ。
(中略)
今やメジャー中のメジャーとも言えるあの3人がかつては「反体制」だった、と言われると確かにすごい。なお、『ぼくのインタヴュー術 応用篇』(ヨシモトブックス)収録の吉田豪氏によるインタビューで高平氏はタモリとは長いこと会っていないと発言しているのだが、それはさておき。要は「サブカルチャー・イズ・デッド」というわけなのだろうが、高平氏がサブカルチャーの必要条件に「反体制」を含めているのは気になるところだ(『ぼくたちの七〇年代』で高平氏は全共闘に羨望があった旨を語っている)。まあ、高平氏の処女作が『みんな不良少年だった』というインタビュー集だったことを考えると、高平氏本人は自分が「不良」だったと考えているかもしれない(かつてインタビューの名手として知られた高平氏が当代きっての名手である吉田氏のインタビューを受けているのはなかなか興味深い)。
筆者は「反体制」という政治的な要素を含めるところに、「好きだから好き」と開き直れない弱さを見てしまうのだが、小林氏の場合と同様に恵まれた環境で生まれ育った者があまり好き勝手に言うのも気が引けるので自重しておく。「好きだから好き」と振舞うのはかなり勇気のいることだ、というのも理解している。ただ、趣味に生きてきた人は自分より後についてネガティブに語りたがるものなのだな、とは思う。サブカルもオタクもデッドなのだ、と。自分もやがてそんな風になるのか、と思うと少しやりきれない。
ここでまた話を変える。先程軽く触れた津野海太郎『おかしな時代-『ワンダーランド』と黒テントへの日々-』(本の雑誌社、2008年)でも、60年代における状況の変化が書かれている。同書P.318より。
単純なものから複雑なものへー。
受け身のたのしみから、なけなしの知力や想像力をギリギリ駆使しなければ理解できないものへー。
つまりは「やわらかい本」から「かたい本」へー。
そうした「読書の階段」とでもいったものがあって、あっただけではなく社会的に公認されてもいて、私などもその階段をのぼってゆくことに、なにがしかの快感をおぼえていたのである。
いったんこの階段をのぼりはじめれば、もはやあともどりはできない。いつのまにか、こちらの頭がそれでは満足できない状態になっていて、そこにさらにまわりの友人との競争意識がくわわる。子どものころからの本好きというような連中はなおさらそうだった。私も例外ではない。肉体的にはともかく、精神的には「おれはもうおとなだ」とおもいたい気分もあったしね。
「読書の階段」が存在することによって、大人が軽い文章を読む習慣はなかった、というわけだ。津野氏はその理由を「日本の社会にそこまでの余裕がなかった」「戦前からの強迫的な教養主義が本の世界にしぶとく根をはっていた」と考察しているが、しかし、その「読書の階段」が60年代に入って崩壊しだした、とも言っている。その一例として、青年が電車の中で漫画週刊誌を読むことなどを挙げているが(そして高平氏は漫画週刊誌を読んでいたという)、あえて崩壊した原因を挙げれば、津野氏が挙げた理由の裏返しで、「日本の社会に余裕が出てきた」「教養主義が崩れだした」ということになるだろうか。経済的な変化については『星条旗と青春と』で語られていたことと同じであり、教養主義に関しては竹内洋『教養主義の没落』(中公新書)にも見られることである。60年代には実際にそうした変化があったのだろう。
そして、津野氏が小林氏と片岡氏について書いたくだりでも「階段」は出てきて、津野氏は「やさしいものからむずかしいものへ、エンターテインメントからハイカルチャーへという文化の階段」を上ろうとして、小林氏と片岡氏に「足もとをわきからサッとすくわれた」のだという(『おかしな時代』P.334)。2人に何故それができたのかを、津野氏は考察している。同書P.335より。
(前略)かれらは私があっさり脱ぎ捨ててしまった少年期の大衆文化の経験から、ヨコにそれず、タテにも逃げず、じぶんの頭でかんがえる習慣をそこから直接つくりあげてきたかのように見える。
このくだりを読んだ時、「やっぱり小林さんたちと自分はそれほど違わないんじゃないか?」と思ってしまった。何故なら、オタクこそが「少年期の大衆文化の経験」に忠実な存在と言えるわけで、「階段」を上らないままそれを楽しみ続けている、とも言える。そして、小林氏が後発の世代に否定的だったのも、「じぶんの頭でかんがえる習慣をそこから直接つくりあげてきた」ことに自負があるからなのではないか、という気がする。確かに、かつての趣味人たちの趣味にかける生き様には圧倒されるし(たとえば、小林信彦、植草甚一、色川武大など)、それと同じことができるか、と言われればおそらく無理、と答えるしかない。とはいえ、先人たちとは比ぶべくもないが、現在のオタクたちもまたそれぞれの葛藤なり紆余曲折を経たうえでオタクをやっているわけで、「昔の人は偉かった。それにひきかえ今の連中は」などとは言えるはずもないのは当然のことだ。これを書いているうちに思い出したが、20年近く前に、ある映画のムック本で切通理作氏が『映画秘宝』をマニュアルのようにして「サイテー映画」を観ているファンを批判していたことがあったが、あれも切通氏に「じぶんの頭でかんがえる習慣」についての自負があったからなのだろう。
ただ、オタクを否定すべきではないのと同じように、「階段」の存在もまた否定すべきではない、と思う。筆者も経験していることだが、大人になれば子供向けの作品に物足りなさや飽き足りなさを感じることはどうしてもあるのだ。「階段」を上ることを躊躇すべきではない、と思いながらも、筆者は踊り場かあるいは中二階にとどまり続けたまま、階段を完全に上りきれないでいるのだが。
『おかしな時代』を読んでいて、「やっぱり小林さんは自分とそれほど違わないんじゃないか?」ともうひとつ思ったのは、「どこかのホテルのロビー」で津野氏が小林氏と話していると、小林氏がグルーチョ・マルクスのアヒル歩きを再現した、というくだりである(同書P.348)。小林さん、「こちら側」じゃん…と思わざるを得なかった。まあ、『燃えよドラゴン』を観て家でブルース・リーのモノマネをした人だから(あれを観てモノマネしない人が居るのか?とも思うけど)、実はわりとお茶目な人だとは思うのだが。
ここまで長々と書いてきたが、結局は「オタクが認知される以前からオタク的な人々がいた」というひとつの事柄について説明したに過ぎない気もする。自分としてはオタクを殊更特別な存在に祀りあげるよりは、オタクを趣味人あるいは知的人種の一典型として捉えた方が理に適っていると考えていて、今回の文章はそういった考えに基づくものである。とは言うものの、オタクが特別な存在であることを今の時点で否定するわけではなく、あれこれ考えているうちにやはりオタクは特別だという結論に到達するかもしれないし、そうなったらそうなったで別に構わない。ともあれ、当ブログでは今後もオタクについて考えていくはずである。
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